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掛川城(かけがわじょう)は、文明年間(1469‐87)に駿河国の守護大名・今川義忠が遠江国支配のため、家臣の朝比奈泰煕に命じて築城させたと伝えられている。 その後、朝比奈氏が城主となっていたが・・・ 1568年(永禄11年)、甲駿同盟が破綻すると、甲斐国の武田信玄が駿河国への侵攻を開始。 今川氏真は迎撃するため駿府館を出て戦ったが、駿河国の有力国人が信玄に通じたことで、今川軍は潰走し、氏真は朝比奈泰朝の掛川城に逃れた。 しかし、信玄と遠江割譲を条件とする同盟を結んでいた徳川家康が遠江国に侵攻して曳馬城を落とし、掛川城を包囲。 籠城戦となり戦は長期化したが、翌年、信玄が家康との約定を破り遠江国に侵攻すると、家康は和睦を模索し、氏真は家臣の助命を条件に開城した。 家康は、氏真の舅で小田原城主の北条氏康とともに駿河国を占領していた武田軍を追い払い、遠江国を支配下に置くと・・・ 1570年(元亀元年)、岡崎城から曳馬城に移って新たに浜松城を築き、掛川城には重臣の石川家成・康通父子を城代として置いている。 1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻め後、家康が関東移封になると、掛川城には秀吉の重臣・山内一豊が入城。 現在残されている城の縄張りは一豊によるものとされる。 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの戦功により一豊が土佐国の高知城に移ると、徳川譜代の大名が入城。 1746年(延享3年)以降は、太田道灌の子孫の太田氏を代々の城主として明治維新を迎え廃城となった。 1994年(平成6年)、山内一豊築城当時の「正保城絵図」に基づいて天守が復元されている。 |
家康と信玄との間で結ばれた盟約は、大井川を境に駿河国が武田領、遠江国を徳川領とするものだったのだという。 |
掛川城を開城した後の今川氏真〜徳川家康の援助を受けた生涯〜 |
静岡県掛川市掛川1138−24 JR東海道線・天竜浜名湖鉄道「掛川駅」から徒歩約10分。 |
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