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1568年(永禄11年)12月6日、甲斐国の武田信玄が駿河侵攻を開始。 12日、今川氏真は武田軍を迎撃するため興津の清見寺に出陣するが敗北(さった峠の戦い)。 信玄に駿府を占領された氏真は、13日、朝比奈泰朝が守る遠江国の掛川城へ逃れた。 正室の早川殿(北条氏康の娘)の駕籠も用意する暇もない逃走だったのだという。 同日、信玄と遠江国の今川領分割を約束していた三河国の徳川家康が遠江国に侵攻。 今川の曳馬城を攻め落とし、27日には掛川城を包囲。 しかし、朝比奈泰朝をはじめとする今川家臣の抵抗で翌年5月まで続く長い籠城戦となる。 その間、娘婿の氏真を支援をするため相模国の北条氏康は、嫡男の氏政を駿河国に出兵させ、武田軍と対峙。 膠着状態が続く中、1569年(永禄12年)1月8日、信玄が家康との同盟を破って遠江国へ侵攻したため、家康は氏真との和睦を模索。 5月17日、氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城し、遠江国は家康の支配下に置かれることとなった。 駿河国を占領していた信玄は、家康と氏康が密約を結んだことで、駿河防衛は困難と判断し、甲斐国へと退却している。 |
大井川を挟んで駿河国を信玄、遠江国を家康が領有するというもの。 この密約によって、それぞれが今川領に侵攻するが、氏真が掛川城に逃げ込むと、信玄は家康支配下にあった久野城を攻撃。 密約が破綻したことで、家康は掛川城の攻略を早めたのだという。 |
黄梅院は、信玄の継室・三条夫人(三条の方)が産んだ子。 北条氏政に嫁いでいたが、信玄の駿河侵攻により甲斐・相模・駿河の三国同盟が破綻し、離縁された。 甲府に戻った黄梅院は、大泉寺の住職を導師として出家。 それから間もない1569年(永禄12年)6月17日死去(享年27)。 信玄は、冨士御室浅間神社に安産を祈願するなど、可愛がっていた娘だったのだという。 翌年には三条夫人も亡くなっている。 黄梅院と仲が良かったという氏政は、箱根湯本の早雲寺に分骨して埋葬したのだと伝えられている。 ただ、近年の研究では、黄梅院は離縁されていないという説も・・・ |
小笠原氏清(氏興)は今川氏に仕え、支城・高天神城を任されていたが・・・ 信玄が駿府を占領し、家康が遠江侵攻を開始すると家康に内通し、掛川城攻めに加わった。 参考までに、氏清は源頼朝に仕えた小笠原長清の子孫。 |
掛川城を開城した後の今川氏真〜徳川家康の援助を受けた生涯〜 |
今川氏は、駿河国の今川館を拠点に駿河・遠江・三河を支配した戦国大名。 徳川家康が築いた駿府城の天守台跡の発掘調査では、今川時代の遺跡も発見されていることから、今川館も同じ場所にあったものと考えられている。 |
今川氏真が出陣した清見寺は、駿河国を守るために設けられた関所跡(清見関)にある寺。 |
家康を祀る久能山東照宮にある石垣は、武田信玄が駿河侵攻で築いた久能城の石垣といわれる。 |
掛川城開城後、家康と氏康の間で氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立したようだが、履行されることはなかったのだという。 したがって、掛川城の開城をもって戦国大名の今川氏は滅亡したものと解釈されている。 |
掛川城を開城した後の今川氏真〜徳川家康の援助を受けた生涯〜 |
元城町東照宮は、家康が落とした曳馬城跡に鎮座する神社。 1570年(元亀元年)、家康は三河国の岡崎城から遠江国の曳馬城に移り、新たに浜松城を築いて本拠としている。 |
掛川城開城後、氏真は北条氏を頼るが、やがて不和となる。 家康は浜松城に氏真を迎えて庇護したのだという。 |
掛川城を開城した後の今川氏真〜徳川家康の援助を受けた生涯〜 |
1572年(元亀3年)、駿河・遠江・三河に侵攻を開始。 家康は一言坂の戦いで敗れ、二俣城の戦いで重要な拠点だった二俣城を奪われ、さらに三方ヶ原の戦いで大敗。 家康をさんざんに蹴散らし、三河に進軍した信玄だったが・・・ 翌年、病に倒れ、長篠城で療養した後、甲斐国へ撤退。 その途中の信濃国伊那谷で死去している。 |
武田信玄の墓 (甲府市) |
武田信玄の墓 (甲州市 恵林寺) |
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