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武田信玄の墓
~甲府の信玄火葬塚~


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武田信玄の墓


 1572年(元亀3年)10月、遠江国への侵攻を開始した武田信玄

 12月には徳川家康浜松城の防衛拠点・二俣城を落とし、三方ヶ原の戦いで家康を破って三河国へ進軍するが・・・

 翌年、野田城を包囲中の陣中で病に倒れ、長篠城で療養した後、甲斐国へ撤退。

 4月12日、甲府へ帰る途中の信濃国伊那谷で死去(53歳)。

 甲府の土屋昌続邸に埋葬され、遺言のとおり、3年の間、信玄の死は秘匿とされ・・・

 3年後の1576年(天正4年)、昌続邸で荼毘に付された後、4月16日に恵林寺で葬儀が行われ、恵林寺に埋葬されたのだと伝えられる。 


信玄は鳳来寺で療養していたとも伝えられる。



武田信玄の墓


 1779年(安永8年)、甲府代官による墓所の発掘が行われ、「法性院機山信玄大居士 天正元年癸四月十二日薨」の銘文がある棺が発見されているらしい。 

 死の直後に火葬されたとも考えられるのだという。





~土屋昌続~

 土屋昌続は、武田二十四将のひとり。

 信玄が死去したことで殉死しようとしたが、高坂昌信に説得されて思いとどまったのだという。

 1575年(天正3年)の長篠の戦いで討死している。





~瀬田橋に風林火山の旗を立てよ!~

瀬田の唐橋
リンクボタン瀬田唐橋
(大津市)

 かつては「瀬田橋を制するものは全国を制す」と言われ、京都防衛上の重要な橋。

 上洛途上の陣中で病に倒れた武田信玄は、臨終の際に瀬田橋風林火山の旗をたてるよう命じたのだとか・・・









武田神社
リンクボタン武田神社

 武田神社は、甲府を開いた武田信虎(信玄の父)が築いた躑躅ヶ崎館(武田氏館)の跡地に建てられた神社。

 祭神は武田信玄

 甲府は躑躅ヶ崎館を中心に整備され、信玄の墓もその一画にある。



恵林寺
リンクボタン恵林寺
(甲州市)

 恵林寺は、信玄が再興した菩提寺。



武田信玄の墓
リンクボタン武田信玄の墓
(恵林寺)

 恵林寺の信玄の墓(五輪塔と宝篋印塔)は、いずれも1672年(寛文12年)の百回忌に建立されたもの。





~信玄の父・母・妻・子~

大泉寺霊廟
リンクボタン武田三代の霊廟
(大泉寺)
大井夫人の墓
リンクボタン大井夫人の墓
(長禅寺)


 大泉寺の霊廟は、信虎・信玄・勝頼の三代を祀っている。

 信玄の母・大井夫人は長禅寺に葬られた。



三条夫人の墓
リンクボタン三条夫人の墓
(円光院)
武田勝頼の墓
リンクボタン武田勝頼の墓
(法泉寺)


 信玄の継室・三条夫人は、円光院に葬られた。

 法泉寺には、信玄の四男で天目山で自害した勝頼の歯髪が葬られた。





~信玄亡き後~

 信玄の死去から2年後の1575年(天正3年)、跡を継いだ武田勝頼が長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗。

 そして、1582年(天正10年)の甲州征伐で勝頼と子の信勝が自刃したことにより、甲斐武田家嫡流は滅亡することとなる。



長篠の戦い


甲州征伐



御旗楯無 御照覧あれ 風林火山
諏訪神号旗 武田信玄訓言








武田信玄




武田信玄の墓
武田信玄の墓

山梨県甲府市岩窪町



武田信玄をめぐる甲府
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