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武田氏は、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏。 武田信玄は甲斐源氏の嫡流「武田家」の19代当主(初代は信義)。 1553年(天文22年)から1564年(永禄7年)まで続けられた上杉謙信との川中島の戦いで知られる戦国武将。 1572年(元亀3年)、上洛するため甲府の躑躅ヶ崎館を発つが、翌年、陣中で病に倒れ、甲府へ帰る途中の信濃国伊那谷(いなだに)で亡くなった(4月12日没・享年53)。 信玄は臨終の際に「死を3年の間秘匿」とするよう遺言し、甲府の土屋昌続邸に埋葬されていたのだという。 |
武田家の家督を継いだ勝頼は、遺言を守り、3年後の1576年(天正4年)に菩提寺の恵林寺で葬儀を行い、恵林寺に遺骸を埋葬。 明王殿の裏手の五輪塔と宝篋印塔は、いずれも1672年(寛文12年)の百回忌に建立されたもの。 信玄墓の背後には、武田家臣の墓が約70基並んでいる。 4月12日の命日には、師だった快川国師の法要に合わせて法事が行われ、「信玄公祭り」が開催されている。 |
長篠城址 (新城市) |
鳳来寺 (新城市) |
長篠城と鳳来寺は、三河国で病に倒れた信玄が療養していたと伝えられる地。 |
武田神社は、信玄の居館だった躑躅ヶ崎館跡に建てられた信玄を祀る神社。 |
川中島古戦場(八幡原史跡公園)は、第4次川中島の戦いで信玄が本陣を敷いた場所。 武田の本陣に切込んだ上杉謙信は、信玄に三太刀斬りつけたが、信玄はそれを軍配団扇で返したのだという。 後で確認すると軍配団扇には七つの傷が残されていたのだとか・・・。 |
謙信との戦いで信濃善光寺の焼失をおそれた信玄は、本尊(善光寺如来)と寺宝などの全てを甲斐国に移した。 |
信玄によって甲斐国に創建されたのが甲斐善光寺。 |
1572年(元亀3年)、遠江に侵攻した信玄は、徳川家康の浜松城を素通り。 家康は信玄を追撃して三方ヶ原で戦ったが大敗。 |
三方ヶ原の戦いは、家康が最大の敗北を喫した合戦といわれ、浜松城に戻った家康は自分の姿を描かせて、その絵を大切にし自らを戒めたのだという。 岡崎城に置かれている「しかみ像」は、家康が描かせた「徳川家康三方ヶ原戦役画像」を基にして製作された石像。 ただ、近年の研究では・・・ 「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、紀州徳川家から尾張徳川家に伝わった家康の御影とされている。 |
徳川家康の「しかみ像」〜実は家康の御影だった〜 |
信玄の死去から2年後の1575年(天正3年)、跡を継いだ武田勝頼が長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗。 そして、1582年(天正10年)の甲州征伐で勝頼と子の信勝が自刃したことにより、甲斐武田家嫡流は滅亡することとなる。 |
恵林寺は七朝帝師と呼ばれた夢窓疎石が開いた臨済宗の古刹。 戦国期には武田信玄が信仰し、明王殿裏には信玄の墓がある。 |
山梨県甲州市塩山小屋敷2280 JR中央本線塩山駅から甲州市市民バス西沢渓谷線・窪平線「恵林寺」下車。 JR中央本線山梨市駅から山梨市営バス西沢渓谷線し「隼上」下車。 |
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