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『吾妻鏡』によると・・・ 1179年(治承3年)に焼失した善光寺は、1187年(文治3年)、源頼朝が再建を命じ、1191年(建久2年)には金堂が完成して落慶供養が行われた。 頼朝亡き後も北条氏によって再建支援が行われ、1253年(建長5年)には、北条重時を檀那として修造供養が行われている。 |
しかし、1268年(文永5年)に焼失。 直ちに再建が進められ、1271年(文永8年)10月19日に堂供養が行われた。 導師は、鶴岡八幡宮の第九代別当の隆弁(りゅうべん)だったという。 また、1299年(正安元年)10月10日には、五重塔の供養が行われ、『鶴岡八幡宮社務職次第』には、「正安元年己亥十十善光寺塔供養 曼荼羅供大阿闍梨」と記されている。 この時の鶴岡八幡宮の別当は、第十一代政助(せいじょ)。 鎌倉時代後期の善光寺は、鶴岡八幡宮と大きな結び付きがあったことがうかがえる。 |
善光寺の額 (山門) |
八幡宮の額 (楼門) |
善光寺の山門に掲げられている額の文字には、5羽の鳩が隠されている。 鶴岡八幡宮の楼門に掲げられている額の八の字は、2羽の鳩で描かれている。 |
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