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甲斐武田家では、重大な決定をするときに棟梁が家宝の「御旗」と「楯無」に誓約したのだという。 その時に発せられた言葉が「御旗楯無 御照覧あれ」。 |
「御旗」(みはた)は、河内源氏二代棟梁の源頼義が1056年(天喜4年)に後冷泉天皇より下賜されたものと伝えられる日の丸の旗。 頼義の三男で甲斐武田氏の祖新羅三郎義光から武田家に代々伝わったものといわれている。 「御旗」は、甲州市の雲峰寺に所蔵されている。 |
日の丸御旗~源義経・北畠顕家・武田信玄・徳川家康が掲げた旗~ |
「楯無」(たてなし)は、「御旗」と同じく新羅三郎義光から武田家に相伝されてきた鎧(「源氏八領」のひとつ)。 「盾もいらないほどに頑丈」というのが名の由来なのだとか。 「楯無」は、甲州市の菅田天神社に所蔵されている。 源頼朝の父義朝が着用した鎧も「楯無」と言われるが、菅田天神社所蔵のものと同じなのだろうか、それとも・・・ 参考までに、源頼朝が初陣で着用した鎧は「源太が産衣」(げんたがうぶぎぬ)。 |
「御旗」と「楯無」に誓ったからには、決まった事を覆すわけにはいかなかったのだという。 1575年(天正3年)の長篠の戦いで織田信長と徳川家康の連合軍に大敗した武田勝頼。 家臣たちは撤退を主張していたようだが、勝頼が「御旗・楯無」に誓ってしまったことから、従わざるを得なかったのだとか・・・ |
伝説によると・・・ 1582年(天正10年)、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻で追い詰められた武田勝頼は、天目山の麓の田野の地で、松の根元に「御旗」(日の丸)を立て、嫡子の信勝(16歳)に「楯無」を着せて元服の儀を執り行ったのだという。 その後、勝頼と信勝は自刃。 「御旗」は家臣が山伝いに運んで雲峰寺に託し、「楯無」は向嶽寺の庭に埋められたが、のちに徳川家康が掘り出させて、菅田天神社に納められたのだという。 |
景徳院は、武田勝頼終焉の地・田野に徳川家康が建立させた寺。 |
雲峰寺 (甲州市) |
菅田天神社 (甲州市) |
雲峰寺には、「御旗」の他に、信玄が用いた「風林火山」の軍旗をはじめとする武田家の重宝が伝えられている。 武田信玄は、甲府の鬼門の守護のため「楯無」を菅田天神社に納め、必要に応じて持ち出したのだという。 |
新羅善神堂 |
義光の墓 |
新羅三郎義光(源義光)は、園城寺の新羅明神で元服したことから「新羅」と呼ばれる。 笛の名手で源義経が愛用したという「薄墨」は義光伝来のものなのだという。 |
信玄誕生地 積翠寺 (甲府市) |
信玄を祀る社 武田神社 (甲府市) |
武田信玄の墓 (甲府市) |
武田信玄の墓 (甲州市 恵林寺) |
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