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景徳院(けいとくいん)は、甲斐国国守の武田勝頼終焉の地に建立された寺。 1582年(天正10年)3月3日、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)で、新府城を放棄した勝頼は、小山田信茂の岩殿城(岩殿山城)に逃れようとするが、信茂が勝頼から離反。 進路を塞がれた勝頼は、天目山棲雲寺を目指すが・・・ 3月11日、山麓の田野で滝川一益軍と合戦となり、奮戦したが数で圧倒され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した。 勝頼・信勝の自害によって、甲斐武田家嫡流は滅亡。 甲斐国は信長が統治するが、この年の6月、信長が本能寺で横死(本能寺の変)。 その後、徳川家康と北条氏直が甲斐国をめぐって争そったが(天正壬午の乱)、家康が甲斐国を領することとなり、7月に勝頼と家臣らの菩提を弔うため、田野寺を建立させたのだという。 建立を命じられたのは、武田の遺臣で、勝頼没後に家康に仕えることとなった小幡景憲。 開山は、甲斐曹洞宗の大元といわれる広厳院の七世・拈橋倀因(ねんきょう ちょういん)。 後に田野寺は、勝頼の戒名「景徳院殿頼山勝公大居士」から景徳院に改称。 山号は天童山。 本尊は釈迦如来。 |
景徳院の諸堂が落成したのは、1588年(天正16年)の事と伝えられ、本堂・山門・御霊屋などが並ぶ伽藍は荘厳を極めたものだったのだという。 しかし、1845年(弘化2年)と1894年(明治27年)の火災で諸堂は焼失。 現在は、1835年(天保6年)に再建された山門を残すのみとなった。 |
1575年(天正3年)の長篠の戦いで大敗した武田勝頼は、遠江の二俣城や高天神城を失い、家臣団の分裂もあって父信玄の残した領国を失っていった。 1581年(天正9年)には、織田・徳川連合軍を迎え撃つため、甲府の躑躅ヶ崎館から新府城に移ったのだが・・・ |
大岡弥四郎の謀反~岡崎城を制圧する予定だった武田勝頼~ 鳥居強右衛門~命を懸けて絶体絶命の長篠城を救った足軽~ |
自害した武田勝頼・嫡子の信勝・継室の北条夫人(北条氏康の娘)が埋葬された場所と伝えられている。 首のない遺体だったため、のちに里人が首のない地蔵尊を安置したのだという。 武田勝頼:享年37 武田信勝:享年16 北条夫人:享年19 |
※ | 勝頼と信勝の首は、京都の一条通の辻で梟首されている。 |
※ | 信勝は、織田信長の姪で、1571年(元亀2年)に死去した龍勝院が産んだ子。 |
甲将殿は、勝頼らが自刃したという場所に建てられている。 勝頼・信勝・北条夫人の坐像と位牌、三人とともに討死した家臣の位牌が納められている。 |
生涯石 (勝頼) |
生涯石 (北条夫人) |
甲将殿の前にある生涯石(生害石)。 勝頼・信勝・北条夫人が自らの命を絶つために選んだ石。 この石の上で自害したのだという。 |
中央が武田勝頼・右が北条夫人・左が武田信勝の墓。 1775年(安永4年)、勝頼らの二百年遠忌にあたり、十一世要導が造立。 |
伝説によると・・・ 追い詰められた勝頼は、松の根元に「御旗」(日の丸)を立て、嫡子の信勝に「楯無」(たてなし・鎧)を着せて元服の儀を執り行ったのだという。 「御旗」と「楯無」は、武田氏の祖・新羅三郎義光伝来の重宝。 信勝の元服の儀が終わると、「御旗」は家臣が山伝いに運んで雲峰寺に託し、「楯無」は向嶽寺の庭に埋められたが、のちに徳川家康が掘り出させて、菅田天神社に納められたのだという。 |
雲峰寺 (甲州市) |
菅田天神社 (甲州市) |
雲峰寺は、「御旗」の他に武田信玄や勝頼が用いた「孫子の旗」、「諏訪神号旗」、「馬標旗」を所蔵している。 勝頼の父・武田信玄は、甲府の鬼門の守護のため「楯無」を菅田天神社に納め、必要に応じて持ち出したのだという。 |
1581年(天正9年)、勝頼は甲府の躑躅ヶ崎館から自らが築いた新府城に本拠を移した。 未完の城だったといわれているが、武田家の甲州流築城技術の集大成の城郭だったらしい。 |
織田・徳川連合軍の甲斐侵攻が始まると、北条夫人は武田氏の安泰を祈願して「武田勝頼夫人北条氏祈願文」を武田八幡宮に奉納したのだという。 |
勝頼が逃れようとした岩殿山城は、小山田信茂の居城。 小山田氏は、武蔵国の秩父を本拠とした秩父氏の流れを汲む氏族で、秩父重弘の子有重を祖とする。 源頼朝に仕え「鎌倉武士の鑑」と呼ばれた畠山重忠は、有重の甥にあたる。 合戦後、信茂は信長に嫡男を人質に出して従属しようとしたが、信長の子信忠から主君への不忠を咎められ、同行していた武田信堯(信玄の甥)とともに甲斐善光寺で処刑されたのだと伝えられている。 |
武田信玄の菩提寺・恵林寺は、織田信長の命により、信玄の師だった快川紹喜をはじめとする100余名の僧が三門に封じ込められ、焼き討ちされたのだという。 のちに徳川家康が再建している。 |
恵林寺焼き討ち~信長公記が伝える甲州征伐~ |
甲斐善光寺は、武田信玄が信濃善光寺の善光寺如来を移すために創建した寺。 甲州征伐後、善光寺如来は織田信長の命により美濃国の岐阜城下に移されるが、間もなく信長は本能寺で横死(本能寺の変)。 その後、尾張国の清州城下、三河国の吉田城下、遠江国の浜松城下を経て、甲斐善光寺に戻されるが・・・ 豊臣秀吉によって京都の方広寺に移され、間もなく秀吉が病に倒れると、信濃善光寺に戻されたのだという。 秀吉は善光寺如来が信濃善光寺に戻された翌日に亡くなっている・・・ |
京都の一条通の辻で晒された勝頼の首は、信玄や勝頼が帰依していた妙心寺の南化玄興がもらい受けて妙心寺に葬ったのだという。 法泉寺には、快岳周悦が南化玄興から譲り受けた歯髪が葬られたのだと伝えられる。 首級牛蒡の伝説 |
甲州征伐で武田勝頼が滅んだことで武田の嫡流は滅亡するが、家康は穴山梅雪の嫡男・勝千代(武田信治)を武田氏当主とした。 勝千代は武田信玄の外孫。 しかし、1587年(天正15年)に勝千代が死去したため、側室の於都摩の方が産んだ万千代(武田信吉)に武田氏を継承させている。 於都摩の方は梅雪の養女。 ただ、1603年(慶長8年)、万千代が死去したことで武田氏は断絶した。 |
下山殿・おつまの方~武田信吉を産んだ徳川家康の側室~ |
山梨県甲州市大和町田野389 JR中央本線甲斐大和駅から甲州市市民バス天目[栖雲寺]行で「景徳院入口」下車。 |
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