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穴山梅雪(信君)は、武田家御一門衆の一人。 穴山氏は、甲斐武田氏七代当主の武田信武の子義武が巨摩郡逸見郡穴山を本貫としたことに始まる。 父は穴山信友。 母は武田信虎の娘。 武田信玄の次女・見性院(三条夫人の子)を正室とし、親子二代にわたる婚姻政策で武田家との繋がりを強化。 外交の専門家として活躍した。 |
※ | 梅雪を名乗るのは、1581年(天正9年)以降のこと。 |
1568年(永禄11年)の信玄の駿河侵攻では、信玄と密約を結んでいた徳川家康との取次や、今川家臣の調略を担当。 1572年(元亀2年)の三方ヶ原の戦いでは大きな戦功があったのだという。 しかし、翌年、信玄が死去すると武田氏は急速に衰えていくことに。 1575年(天正3年)の長篠の戦いでは、信君の活躍は見られなくなる。 そして、1582年(天正10年)2月、織田・徳川連合軍による甲州征伐が開始されると、家康の誘いに乗って信長に内通。 武田勝頼が天目山で自刃して滅亡すると、信長から甲斐国河内領と駿河国江尻領を安堵されている。 同年5月、家康とともに近江国の安土城を訪問して信長に謁見。 その後、信長の勧めで家康らとともに京都や堺を遊覧していたが、6月2日、信長が京都の本能寺で横死(本能寺の変)。 家康らとともに畿内を脱出しようとするが、宇治田原で一揆の襲撃にあい殺害された(諸説ある(享年42)。)。 家康は伊賀越えで三河国の岡崎城に辿り着いている。 |
1568年(永禄11年)の駿河侵攻では、駿府の今川氏真は敗走して掛川城に籠ったが、翌年、家康に攻められて開城。 戦国大名としての今川氏が滅亡している。 |
掛川城を開城した後の今川氏真〜徳川家康の援助を受けた生涯〜 |
1572年(元亀2年)の三方ヶ原の戦いで家康を破った信玄は三河国へと進軍するが、翌年、病に倒れて長篠城で療養した後、甲府へ撤退。 4月12日、その途中の信濃国伊那谷で死去し、躑躅ヶ崎館の麓の土屋昌続邸に葬られたのだという。 3年後の1576年(天正4年)4月16日、甲州市の恵林寺に改葬されている。 |
1575年(天正3年)の長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗。 この合戦で穴山衆は積極的な戦いをしなかったと見られ、多くの武田家臣が討死した中で無事に帰還している。 戦後、春日虎綱は、武田勝頼に信君の切腹を進言していたのだという。 |
景徳院は、武田勝頼終焉の地・田野に徳川家康が勝頼と家臣らの菩提を弔うために建立させた寺。 |
1582年(天正10年)5月15日、信長への御礼言上のため家康に随行して上洛。 安土城で信長に謁見した梅雪だったが・・・ 6月2日に本能寺の変が発生。 畿内を脱出しようとしたが、宇治田原で最期を遂げることになった。 |
安土饗応〜織田信長・徳川家康・明智光秀と本能寺の変〜 |
武田信玄亡き後の武田氏の衰退を見ていた梅雪は、武田氏存続のために武田勝頼を裏切ったという説がある。 生前、梅雪は養女の於都摩の方(おつまのかた)を信長と同盟関係にあった家康の側室としている。 梅雪の死後、家康は梅雪の嫡男・勝千代(武田信治)を武田氏当主としたが、1587年(天正15年)、勝千代が死去すると、於都摩の方が産んだ万千代(武田信吉)が武田氏を継承。 ただ、1603年(慶長8年)、万千代が死去したことで武田家は滅亡してしまう。 |
下山殿・おつまの方〜武田信吉を産んだ徳川家康の側室〜 |
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