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1568年(永禄11年)、武田信玄の駿河侵攻によって駿府を奪われ、翌年、逃げ込んだ掛川城を徳川家康に攻められて開城した今川氏真。 正室の早川殿(北条氏康の娘)とともに北条家に引き取られ、伊豆の戸倉城に入った。 間もなく、早川殿の甥・国王丸(のちの北条氏直)が氏真の養子となり今川家の家督を相続。 将来、駿河国を譲ることを約束している。 その後、嫡男の範以(のりもち)が誕生。 範以は、早川殿の実家(小田原近郊の早川郷)で1570年(元亀元年)に生まれたと考えられ、この頃には氏真も小田原にいたのかもしれない。 1572年(元亀3年)には、早川郷の久翁寺で今川義元の十三回忌が行われている。 この前年、北条氏康が死去。 掛川城開城後、家康と氏康の間で氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立していたようだが・・・ 跡を継いだ北条氏政が武田氏と同盟を結んだことで、氏真の駿河復帰は困難となる。 また、養子とした氏直が北条氏の後継者と決まったため、養子縁組は解消されている。 1573年(天正元年)頃には、家族とともに浜松に移って家康を頼っていたらしい。 1575年(天正3年)、上洛して三条西実澄ら公卿と家を訪問。 駿府の今川館にいた頃の氏真は、連歌の会や茶会を催し、三条西実澄や冷泉為益らの歌人が駿府に滞在していたことがあったのだという。 京都滞在中、相国寺では、桶狭間の戦いで父の義元を討った織田信長と会見し、蹴鞠を披露。 この年に起こった長篠の戦いでは家康に従い、氏真に仕えていた朝比奈泰勝が内藤昌豊を討ち取っている。 この頃には剃髪して宗ァ(そうぎん)と名乗っていたらしい。 翌年、武田氏の諏訪原城を奪取した家康は、牧野城と改めて氏真を入城させている。 一年足らずで浜松に戻されたとされるが、城主は解任されていなかったとする説がある。 この間、早川殿は、1576年(天正4年)に次男・品川高久、誕生年は不明だが三男・西尾安信、1579年(天正7年)に四男・澄存を産んでいる。 1586年(天正14年)、家康が浜松城から駿府城に移ると、氏真らも駿府に移ったものと考えられるが、しばらくは消息が不明。 1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡し、家康が関東移封になると、京都に移り住んだらしい。 1598年(慶長3年)、次男の品川高久が徳川秀忠に出仕。 嫡男の範以は1607年(慶長12年)に没したが、遺児の範英は1611年(慶長16年)に秀忠に出仕している。 1612年(慶長17年)、駿府城で家康と面会した氏真は、品川の地を与えられ、江戸に移住。 翌年、早川殿が死去。 1615年(慶長19年)12月28日、氏真死去(享年77)。 萬昌院で葬儀が行われ、同寺に葬られている。 |
萬昌院は、今川義元の三男・今川長得(一月長得)が江戸城の半蔵門近くに創建した寺。 氏真は弟が建てた萬昌院に葬られたが、のちに孫の今川直房が観泉寺に改葬している。 |
観泉寺には、氏真と正室の早川殿の墓が並んで建てられている。 |
「高家」(こうけ)は、勅使接待や伝奏など朝廷・公卿との関係の儀式典礼を司る役職。 氏真の次男・品川高久は高家品川家の祖。 孫の範英(直房)は高家今川家の祖。 1645年(正保2年)、今川直房は公卿の菊亭経季(今出川経季)と交渉して「東照宮」の宮号宣下を実現させている。 |
久能山東照宮 (静岡市) |
日光東照宮 (日光市) |
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