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北条氏政は、1538年(天文7年)、北条氏康の次男として誕生。 1554年(天文10年)、父氏康が甲斐の武田信玄、駿河の今川義元と甲相駿三国同盟を結んだことにより、信玄の娘黄梅院を正室に迎えた。 1559年(永禄2年)、父氏康の隠居に伴い家督を継ぐが、氏康存命中は両頭体制が続けられた。 1568年(永禄11年)、信玄が駿河に侵攻したことにより三国同盟は破綻、信玄に対抗するため上杉謙信と同盟を結んだ。 これにより仲むつまじかったという黄梅院とも離縁している。 1571年(元亀2年)、父氏康が亡くなると上杉との同盟を破棄し、武田と再び同盟を結び、1572年(元亀3年)の三方ヶ原の戦いでは武田に援軍を出して織田・徳川連合軍を破っている。 1580年(天正8年)には織田信長に臣従。 この年、家督を子氏直に譲るが、その実権はなおも氏政が握っていた。 1582年(天正12年)、本能寺で信長が明智光秀に討たれると(本能寺の変)、領国を拡大し、その規模は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野と常陸・下野・駿河の一部に及ぶ240万石に達し、後北条氏の最大版図を築き上げた。 しかし、信長の跡を継いだ豊臣秀吉と対立し、1590年(天正18年)、小田原城を包囲され降伏(小田原征伐)。 氏政は7月11日に切腹した。 |
掛川城を開城した後の今川氏真〜徳川家康の援助を受けた生涯〜 |
石垣山城 (秀吉の一夜城) |
氏政・氏照の墓 (小田原市) |
豊臣秀吉が築いた石垣山城の出現によって小田原城の将兵は戦意を喪失したという。 |
小田原城 |
八幡山古郭 (小田原城) |
小田原城の氏政・氏直父子に開城の説得をしたのは黒田如水(官兵衛)だった。 城主氏直は、和議の謝礼として官兵衛に「吾妻鏡」、「日光一文字(太刀)」、「北条白貝(ほら貝)」、「平家琵琶」を贈ったという。 |
黒田官兵衛が譲り受けた『吾妻鏡』北条本〜小田原征伐〜 |
早雲寺 |
北条五代の墓 |
早雲寺は、北条早雲の死後、子の氏綱が創建した北条氏の菩提寺。 墓所には早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の墓がある。 1590年(天正18年)の小田原落城後、北条氏を継承した狭山藩北条家五代当主の氏治が1672年(寛文12年)に早雲の命日に際して建てたもの。 |
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