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箱根湯本の早雲寺は、1521年(大永元年)、北条早雲(伊勢盛時)の遺言により北条氏綱が創建した臨済宗大徳寺派の寺院。 開山は大徳寺八十三世の以天宗清(いてんそうせい)。 本尊は釈迦三尊仏(室町時代)。 小田原北条氏の菩提寺として栄え、1542年(天文11年)には後奈良天皇の勅願寺となったが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、秀吉軍の本陣が置かれ、石垣山の一夜城が完成すると焼き払われた。 その後、1627年(寛永4年)、十七世菊径宗存によって再建されている。 |
黄梅院は、北条氏政の正室。 甲斐国の武田信玄の娘で三条夫人(三条の方)が産んだ子。 1568年(永禄11年)、信玄の駿河侵攻により甲斐・相模・駿河の三国同盟が破綻となると離縁され、翌年6月17日、甲斐国で死去(享年27)。 黄梅院と仲が良かったという氏政は、早雲寺に分骨して埋葬したのだと伝えられている。 ただ、近年の研究では、黄梅院は離縁されずに小田原城で死去したという説も・・・ |
鐘楼は江戸後期の寛政年間の建物と考えられている(箱根町の文化財)。 |
梵鐘は1330年(元徳2年)の鋳造で、1590年(天正18年)、豊臣秀吉が石垣山の一夜城で使用したものと伝えられている(県重文)。 |
開山の以天宗清(いてんそうせい)は、山城出身。 泉涌寺で得度した後、大徳寺の東海宗朝の法を嗣ぎ、1519年(永正16年)、大徳寺八十三世となる。 1521年(大永元年)、伊豆韮山の香山寺から早雲寺の開山に迎えられ、早雲・氏綱・氏康の帰依を受けた。 1542年(天文11年)には、後奈良天皇より正宗大隆禅師の諡号(しごう)を賜っている。 1553年(天文23年)1月19日示寂(83歳)。 |
開山堂は、近年、鎌倉円覚寺の舎利殿などを参考に建てられたというもので、以天宗清像が安置されている。 |
山上宗二は千利休の高弟。 小田原北条氏の庇護を受け小田原に滞在。 1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に、師に再会するため本陣だった早雲寺を訪れたが、秀吉の逆鱗にふれ斬殺されたのだという。 |
豊臣秀吉に処刑された千利休の高弟・山上宗二 |
箱根の底倉温泉にある太閤石風呂は、秀吉が将兵たちとともに疲れを癒したという湯。 徳川家康や淀殿も訪れたのだという。 箱根神社には、小田原征伐の最中に秀吉が聚楽第の北政所(寧々)に宛てた自筆の書状が残されている。 |
1590年(天正18年)7月5日、北条氏は豊臣秀吉に降伏。 開城の説得にあたったのは黒田如水(官兵衛)だった。 小田原城主北条氏直は官兵衛に「吾妻鏡」、「日光一文字(太刀)」、「北条白貝(ほら貝)」、「平家琵琶」を贈ったのだという。 四代氏政とその弟氏照は切腹。 五代氏直は高野山へ登り謹慎した後、翌年には赦免され豊臣の大名となったが、同年11月4日、病死した。 伊豆の韮山城主だった氏規(氏政の弟)は、大阪河内狭山に一万石を許され狭山北条氏に、鎌倉の玉縄城主だった氏勝は徳川家康から下総岩富に一万石が与えられ、その家系は江戸時代を通じて存続されている。 |
氏政・氏照の墓 |
北条五代の墓 |
黒田官兵衛が譲り受けた『吾妻鏡』北条本〜小田原征伐〜 |
飯尾宗祇の墓 |
稲津祗空の墓 |
室町時代の連歌師宗祇は、1502年(文亀2年)に箱根湯本で亡くなったのだという。 江戸中期の俳人祗空は、1731年(享保16年)、箱根湯本(境内)に石霜庵を結んだ。 |
江戸中期の俳人で松尾芭蕉の師であった北村季吟は、1701年(元禄14年)、宗祇200年忌供養の連吟を奉納した。 季吟が1689年(元禄2年)に著した『湯もとの記』によれば・・・ かつて早雲寺の境内にあったという白山神社は、関東に疱瘡が蔓延した天平年間に勧請され、その折に温泉が湧き出して、それに浴した人々の疱瘡が悉く治ったのだという。 |
神奈川県足柄下郡箱根町湯本405 箱根登山鉄道「箱根湯本」駅から徒歩15分 箱根登山バス旧街道畑宿経由「早雲寺公園前」下車 |
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