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聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)は、1585年(天正13年)に関白となった豊臣秀吉が、1587年(天正15年)に平安京大内裏(平安宮)跡に造営した政庁兼邸宅。 現在の二条城の北。 東西600メートル、南北700メートルという広大な敷地に堀がめぐらされた城郭で、堀の外には武家屋敷が配置されていたのだという。 1588年(天正16年)には後陽成天皇が行幸。 この時、秀吉は徳川家康・織田信雄・宇喜多秀家・前田利家らの有力大名に忠誠を誓わせている。 1591年(天正19年)、秀吉は甥の秀次を関白とすると聚楽第を譲るが、1595年(文禄4年)、秀次が謀反の疑いで処罰されると聚楽第も破却された。 その遺構の多くは、秀吉の隠居所として築城中だった伏見城に移されたのだという。 大徳寺の唐門・妙覚寺の表門・西本願寺の飛雲閣は聚楽第から移築された遺講とされる。 |
平安宮 (大内裏) |
内裏跡 |
平安宮(大内裏)は、平安京の宮城。 内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 |
大極殿跡 (朝堂院正殿) |
豊楽殿跡 (豊楽院正殿) |
平安宮(大内裏)の中央には朝堂院、西に豊楽院、北東に内裏があり、それらを囲むように二官八省をはじめとする役所が建ち並んでいた。 大極殿は、朝堂院の正殿。 豊楽殿は、豊楽院の正殿。 平安宮は、1227年(安貞元年)の火災で全焼した後は再建されなかった。 |
聚楽第の外郭内には、豊臣秀長・豊臣秀次をはじめ、前田利家・黒田孝高・細川忠興・蒲生氏郷・堀秀政など有力大名の屋敷が並び、千利休も外郭内に屋敷を与えられたのだという。 晴明神社には利休屋敷跡の碑が建てられている。 |
一条戻橋の東側には、加藤清正邸があったのだという。 |
平安宮建春門跡の近辺には、聚楽第の南外濠があった。 |
謀反の罪で高野山へ追放となった豊臣秀次は、1595年(文禄4年)7月15日に切腹。 8月2日には三条河原で梟首された。 瑞泉寺は、秀次の菩提寺として建立された。 |
1588年(天正16年)、秀吉は聚楽第に有力大名を呼んで忠誠を誓わせるが、小田原の北条氏政・氏直父子は列席しなかったため、1590年(天正18年)の小田原征伐に繋がったのだという。 |
箱根神社には、小田原征伐の最中に秀吉が聚楽第の北政所(寧々)に宛てた自筆の書状が残されている。 |
徳川家康が造営した二条城は、破却された聚楽第の南側に造営された。 |
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