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1590年(天正18年)7月5日、豊臣秀吉の小田原攻めにより、小田原北条氏(後北条氏)五代当主北条氏直は降伏し、小田原城は開城。 秀吉は、小田原攻めを招いた責任者として四代当主・北条氏政とその弟氏照に切腹を命じ、2人は7月11日、城下の田村安斉邸(現南町)で自刃。 当時この地にあった北条氏の氏寺・伝心庵に埋葬された。 現在の墓所は、永く放置されてあったものを小田原城に入った稲葉氏が北条氏追福のため建て直したもので、関東大震災で埋没してしまうが、地元の有志によって復興された。 墓所には、氏政・氏照・氏政夫人のものという「大中小の五輪塔が三基」、氏政と氏照が自害する際に腰を掛けたと伝えられる「生害石」、「笠塔婆型墓碑」・「石燈篭」などが置かれている。 右から氏政夫人・氏政・氏照の五輪塔。 氏政夫人とは、氏政の正室・黄梅院(武田信玄の娘)が病死した後、後妻に迎えられた鳳翔院殿のことと考えられる。 |
鳳翔院殿は、小田原攻めで籠城戦が行われている最中の6月12日に死去。 同日、氏政の生母・瑞渓院も死去していることから自害したのではないかと言われている。 |
善栄寺は、木曽義仲の平家討伐に従軍した女武者巴御前が義仲と和田義盛の菩提を弔うために創建したと伝えられる寺。 後に瑞渓院が再興。 小田原藩の財政を立て直した二宮尊徳の菩提寺でもある。 |
黒田官兵衛が譲り受けた『吾妻鏡』北条本〜小田原征伐〜 |
氏政と氏照が埋葬された伝心庵は、大久保氏の時代に寺町(中町)に移され、その跡地には永久寺が建立されたことから、現在墓所は永久寺の所有となっている。 『新編相模国風土記稿』の永久寺の項には、 「北條氏政氏照兄弟碑。巽隅にあり、臺座を合せ、長三尺、一基に二人の法名を并彫る、慈雲院殿勝岩傑公大居士、北條相模守氏政、青雲院殿楽關公大居士、北條陸奥守氏照、天正十八年七月十一日、背に生害之場所と彫れり。 按ずるに兄弟生害ありし地は、城下田村安斎の宅なること、當時の記録に見えたり、安斎の宅蹟は、筋違橋・欄干橋両町の邊にあり、事は侍屋敷の條に詳なり、然るを當所となすもの解すべからず。 墓前に腰掛石と唱ふる石あり、縦二尺五寸、横三尺三寸」 と記されている。 氏政は、小田原北条氏(後北条氏)の第四代当主。 北条氏康の次男。 氏照は、氏政の弟(氏康の三男)で、八王子城など五つの支城の城主だった。 |
石垣山城 (豊臣秀吉一夜城) |
八幡山古郭 (小田原城) |
早雲寺 (箱根湯本) |
北条五代の墓 (早雲寺) |
氏政・氏照の墓に掛けられているのは「幸せの鈴」。 墓所に置かれている鈴に願をかけて持ち帰り、願いが叶ったら返しにくるというもので、若者の人気スポットになっている。 豊臣秀吉の小田原攻めで、領民を思い開城を決意した2人の供養にもなるのだとか。 |
小田原市栄町2−7−8 小田原駅北口から徒歩すぐ |
小田原城は、1495年(明応4年)に北条早雲が奪取し、以後、小田原北条氏(後北条氏)の居城となった。 1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めによって落城した後は、大久保氏、稲葉氏が城主として入城している。 1870年(明治3年)に廃城。 |
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