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二宮尊徳(金次郎)は、江戸時代に多くの農村を救った農村改革の指導者。 1787年(天明7年)7月23日、相模国足柄上郡栢山村(小田原藩領・現在の神奈川県小田原市栢山)で百姓利右衛門の長男として誕生した。 通称は「金次郎」。 母はよし。 5歳の時に暴風で酒匂川の堤が決壊し、尊徳の住む東栢山一帯は濁流に押し流され、父利右衛門の田畑も流失した。 14歳で父を亡くし、2年後には母も亡くした尊徳は、伯父二宮万兵衛の家に身を寄せることとなるが、伯父の家で農業に励むかたわら、荒れ地となってしまった農地を復興させ、わずかに残っていた農地を小作に出すなどして、20歳のときに生家の再興を遂げている。 その後、小田原に出て武家奉公をしていた尊徳は、小田原藩家老服部家から、服部家の財政建て直し頼まれ、見事にそれを成功させた。 続いて、小田原藩主大久保忠真の命を受け、その分家で旗本宇津家の知行所であった下野国桜町領(現在の栃木県真岡市)の開発・治水など復興事業を行い桜町領を再建させた。 のちに東郷陣屋に移った尊徳は、天領(真岡代官領)の経営を行い成果を上げている。 その後、日光神領の仕法を行うが、1856年(安政3年)10月20日、下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所で没(満69歳)。 戒名は、誠明院巧譽報徳中正居士。 |
二宮尊徳は栢山村の農業改革に尽力し、その豊富な農業知識が認められ、「報徳仕法」という独自の方法と理念に基づいて、小田原藩領をはじめ諸藩諸村の農地(荒地)を改良して、農村の復旧に努力した。 尊徳が指導した農村は600にものぼるという。 |
少年勉学の像 (善栄寺) |
本尊礼拝の像 (飯泉観音) |
二宮金次郎像 (小田原駅) |
生家 |
二宮尊徳遺髪塚 |
二宮尊徳の墓 |
大久保忠真の命で行った下総国桜町での復興事業は、全てが順調に進んだわけではない。 村人からの反感もあってトラブルが多発すると、突然行方をくらまし、成田山新勝寺で21日間に及ぶ断食水行に入ったのだという。 成就させると村人からの反感もなくなり、仕法も順調に進んでいったのだという。 |
右側手前が水行場。 その横には「二宮尊徳翁開眼之地」の碑が建てられている。 |
至誠・・・ うそいつわりのない真心のこと。尊徳の生き方すべてをつらぬいている精神。 |
勤労・・・ 自分や地域の向上のために自分にできる仕事に励むこと。 |
分度・・・ 自分の置かれた状況や立場にふさわしい生活をおくること。 |
推譲・・・ 分度によって生まれた力やお金を自分の将来や社会に譲ること。 |
自然の恵みを大切にし、共生することを考えた二宮尊徳。 「積小為大」の精神は、その経験から培われたもの。 |
報徳二宮神社 |
松苗植栽地跡 |
捨苗栽培地跡 |
油菜栽培地 |
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