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韮山城は、源頼朝が流されたという蛭ヶ小島に程近い龍城山と呼ばれる尾根上にあった平山城。 文明年間(1469年〜1486年)に堀越公方足利政知の家臣・外山豊前守が城を築いたのが始まり。 1493年(明応2年)、伊豆国内の内紛に乗じて攻め入ってきた駿河国興国寺城の北条早雲(伊勢盛時)が奪い取り、本格的な築城に取り掛かった。 伊豆国を統治していた堀越公方の足利茶々丸は早雲によって伊豆を追放されている。 早雲は、この城を拠点に相模国へ進出し、1495年(明応4)には小田原城を奪取、1512年(永正9年)には、鎌倉に玉縄城を築城した。 |
※ | 早雲は、小田原城奪取後もそちらへ移ることなく、1519年(永正16年)に没するまでこの城を居城としていたという。 |
「枯るる木にまた花の木を植えそへてもとの都になしてこそしめ」 |
武家の都鎌倉の再興を誓った北条早雲 |
室町時代、伊豆韮山には堀越公方が置かれていた。 北条早雲に攻められた足利茶々丸は、願成就院で自害したという。 |
1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めでは、北条氏規(北条氏康の五男)が城に籠もり、豊臣勢4万の兵を3千という寡兵で4ヶ月も守り抜いたという。 最終的には、徳川家康の説得によって、6月24日に開城している。 その後、徳川家康が関東に入ると、内藤信成が伊豆国1万石を与えられ韮山城主となるが、関ヶ原の戦い後の1601年(慶長6年)には、駿府城を与えられたことから韮山城は廃城となった。 |
北条氏直が降伏して小田原城を開城すると、北条氏は韮山城主だった氏規が継承し、江戸時代には狭山藩を与えられ明治維新まで存続している。 |
清見寺は「徳川家康学びの寺」。 清見寺の梵鐘は、小田原征伐で韮山城攻撃の陣鐘として使用されたのだという。 |
韮山城址の尾根の長さは約400メートル、幅は100メートル。 北から三の丸・権現曲輪・二の丸・本丸と並んでいたという。 龍のような形をした山の尾根にあったことから「龍城」とも呼ばれていた。 |
韮山城の堀の一部で、農業用のため池として使用されていた。 |
熊野神社は、北条早雲が韮山城の守護神として祀った。 |
韮山城址からは、源頼朝が流されたという蛭ヶ小島がよく見える。 |
静岡県伊豆の国市 伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅から徒歩15分 |
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