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室町時代、鎌倉には鎌倉府が置かれ、その長官である鎌倉公方が関東八カ国に伊豆・甲斐を加えた10カ国を統治していた。 しかし、1453年(享徳3年)、五代目の足利成氏は、補佐役である関東管領の上杉憲忠と対立。 成氏が憲忠を暗殺したことで、足利氏と上杉氏との合戦となり、室町幕府は成氏討伐を行った。 その結果、成氏は古河に逃れ「古河公方」と称した(享徳の乱の勃発)。 1457年(長禄元年)、将軍足利義政は、古河の成氏に対抗するため、異母兄政知を鎌倉公方に据えようとしたが、政知は鎌倉に入ることができず、伊豆の堀越に留まり、堀越公方と呼ばれた。 堀越公方の御所は成福寺辺りにあったとされ、旧北条氏邸の一部が利用されていたと考えられている。 |
北条館跡 |
北条政子産湯の井戸 |
堀越公方となった足利政知は、六代将軍義足利義教の次男。 天龍寺香厳院主となっていたが、1457年(長禄元年)、還俗して政知と名乗った。 翌年、渋川義鏡と上杉教朝を伴って鎌倉へ向かうが、足利成氏の勢力が強大で鎌倉には入ることができず、伊豆に留まり国清寺を陣所とした。 |
しかし、1460年(長禄4年)、国清寺は成氏の焼き討ちあい、政知は新たに築造した堀越御所へ移っている。 成氏は古河に逃れたとはいえ、それに従う勢力は多かった。 したがって、政知にとっては成氏征伐どころではなかったかもしれない。 |
※ | 政知に従っていた上杉教朝は関東管領を務め、鎌倉公方の足利持氏の排斥に失敗して自刃した上杉禅秀の子(参考:上杉禅秀の乱)。 |
堀越公方には山内上杉家や扇谷上杉家が従っていたが、その命令権は幕府にあり、幕府の援助によって成り立っていた。 しかし、1467年(応仁元年)に「応仁の乱」が勃発すると、幕府の援助は期待できなくなる。 さらに山内上杉家の重臣長尾景春が反乱を起こしたことで、関東管領の上杉顕定が成氏と和睦。 1483年(文明14年)には幕府も成氏と和睦した。 これにより成氏の鎌倉公方としての地位が承認される形となり、堀越公方は伊豆国のみを支配することとなった。 1491年(延徳3年)、政知が死去すると、子の茶々丸が後継者となった。 茶々丸は政知の嫡男として誕生したが、素行不良のため牢に閉じこめられていた。 そのため政知は弟の潤童子を後嗣と定めていたが、茶々丸は、潤童子と継母(潤童子の母)を殺害して堀越公方になったのだという。 その後、茶々丸は家老の外山豊前守を誅殺するなどの事件を起こし、伊豆国内に内紛を起こしてしまう。 この機に乗じたのが駿河国興国寺城の北条早雲(伊勢盛時)。 1493年(明応2年)、早雲は伊豆に攻め込み、事実上堀越公方を滅亡させた(伊豆討入り)。 |
北条早雲に攻め込まれた茶々丸は、願成就院で自害したとされてきた(願成就院には、茶々丸の墓がある。)。 しかし、近年の研究では、1495年(明応4年)に伊豆国を追放され、その後、山内上杉家や武田氏を頼って伊豆奪還を狙っていたが、1498年(明応7年)に甲斐国で早雲に捕らえられ自害したということが明らかとなっているという。 |
韮山城址 |
足利茶々丸墓 (願成就院) |
韮山城は堀越公方の家老外山豊前守が築いた城。 伊豆に攻め入った北条早雲は韮山城を手に入れ相模進出の拠点とした。 |
三島市の宝鏡院は、足利二代将軍義詮が創建したという臨済宗建長寺派の寺院。 義詮と政知が葬られたのだと伝えられている。 |
〜将軍家に受け継がれた堀越公方の血統〜 |
茶々丸の異母弟義澄は1493年(明応2年)に十一代将軍となっている。 義澄の生母は、実兄の潤童子とともに茶々丸に殺された。 一説には、北条早雲の伊豆討入りは、将軍生母の殺害犯である茶々丸を追討するものだったのだという。 堀越公方は茶々丸の代で滅亡したが、その血統は将軍家に受け継がれた。 |
伊豆の国市寺家字守山・御産所、同四日町字御所之内 伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅から徒歩15分 |
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