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1512年(永正9年)、北条早雲(伊勢盛時)が三浦氏を攻略するため鎌倉に築いたのが玉縄城。 鎌倉は源頼朝が武家の都を創始し、鎌倉幕府滅亡後も鎌倉府が置かれ、その長官・鎌倉公方の統治下で、なおも政治の中心地として存在していた。 しかし、1454年(享徳3年)の享徳の乱で鎌倉公方の足利成氏が鎌倉を追われると、武家の街として栄えてきた鎌倉も政治の中心から離れることになる。 玉縄城を築く際、荒廃した鎌倉を見た早雲は、 「枯るる樹にまた花の木を植ゑそへてもとの都になしてこそみめ」 と詠じ、 鎌倉をもとの武家の都とすることを誓ったのだと伝えられている。 |
北条早雲は、戦国大名・後北条氏(小田原北条氏)の祖といわれるが、「北条」を称したのは二代氏綱からと考えられている。 「北条」と名乗った理由は、相模国を治めるために鎌倉幕府を支配した北条の名は都合がよかったらしい・・・ |
鶴岡八幡宮は、1526年(大永6年)に安房の里見実堯が鎌倉に攻め込んだ際に焼失。 早雲の意志を受け継いだ北条氏綱は、1532年(天文元年)から鶴岡八幡宮の再建に着手。 興福寺をはじめ奈良・京都の宮大工が呼び寄せられたのだという。 1540年(天文9年)には正殿遷宮が行われたが、全ての事業が終了したのは子の北条氏康の代の1544年(天文13年)のこと。 1990年(平成2年)に発見された鶴岡八幡宮一の鳥居の柱痕は氏康が造立した鳥居である可能性が高いのだという。 |
小田原城は、韮山城を拠点としていた早雲が相模平定のために奪取した城。 早雲が居城としたことはなかったが、二代氏綱・三代氏康・四代氏政・五代氏直の居城となった。 1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めで開城。 四代氏政は切腹、五代氏直は高野山に謹慎後、翌年11月に病死した。 |
鎌倉市玉縄地域城廻 大船駅西口より徒歩25分 |
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