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鳥居強右衛門(とりいすねえもん)は、奥平家の家臣(陪臣)。 1575年(天正3年)5月、武田勝頼が1万5千の兵を率いて長篠城を包囲すると・・・ 城主の奥平貞昌(信昌)は、岡崎城の徳川家康に援軍を要請しようとするが、武田軍の包囲網を突破して使者を送るのは困難なことだった。 しかし、強右衛門が岡崎城へ赴くことを志願。 そして、5月15日、無事に岡崎城に辿り着いた。 このとき、岡崎城には岐阜城を出陣していた織田信長が到着しており、16日には長篠へ向けて出陣する手はずになっていたのだという。 それを聞いた強右衛門は、16日早朝、雁峰山から狼煙を上げて城内にしらせ、詳しい情報を伝えるため城へ戻ろうとするが・・・ 武田方に捕らえられてしまう。 城近くまで連行された強右衛門は、「援軍はこない」と叫べば命を助けるといわれるが・・・ 「援軍はすぐ到着する。それまで持ちこたえよ」 と叫んだ。 そのため、磔にかけられて処刑されてしまうが・・・ 強右衛門のおかげで援軍が来ることを知った城内の兵たちの士気は上がり、落城寸前だった城を守り抜くことができたのだという。 |
織田信長と徳川家康は5月14日に岡崎で合流し、5月18日には長篠城手前の設楽原に着陣している。 強右衛門の活躍もあって何とか持ちこたえていた長篠城を救ったのは、徳川四天王のひとり酒井忠次だった! |
設楽原の戦い〜信長に鳶ヶ巣山砦の奇襲を進言した酒井忠次〜 |
1575年(天正3年)、三河国に侵攻した武田勝頼は、松平信康のもとで町奉行を務めていた大岡弥四郎の手引きで、岡崎城を制圧する予定だったのだという。 しかし、大岡弥四郎の謀反計画が発覚してしまったため、長篠城を奪還する作戦に切り替えたのだとか。 |
大岡弥四郎の謀反〜岡崎城を制圧する予定だった武田勝頼〜 築山殿〜正室を殺害し嫡男信康を自害させた徳川家康〜 松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜 |
愛知県新城市長篠字市場22−1 JR飯田線「長篠城駅」から徒歩7分 |
愛知県新城市長篠 JR飯田線「三河東郷駅」から徒歩10分 |
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