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1582年(天正10年)3月11日、天目山の戦いで武田勝頼が自刃。 武田を滅ぼした織田信長は、恵林寺に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡し要求するが・・・ 『信長公記』によると・・・ 1582年(天正10年)4月3日、恵林寺が佐々木次郎(六角義定)を匿ったとして、織田信忠は津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼を派遣。 老若を問わず寺中の者を三門に上らせ、廊門から三門まで積み上げた草に火を付けさせた。 はじめは黒煙が立ち込めて様子がわからなかったが、次第に煙がおさまり、燃え上がえる火の中に人の姿が見えるようになる。 快川長老は少しも騒ぐことなく坐したまま動かなかったが・・・ その他の老若・稚児・若衆は、焦げるような熱さの中を踊り上り、飛び上り、その苦しむ様は目も当てられない状態だった。 この焼き討ちで、宝泉寺の雪岑長老・東光寺の藍田長老・高山長禅寺の長老・大覚和尚長老・長円寺長老・快川長老など長老格11人が殺され、老若上下を問わず、百五十余人が焼死したのだという。 |
恵林寺は七朝帝師と呼ばれた夢窓疎石が開いた臨済宗の古刹。 武田信玄が信仰し、明王殿裏には信玄の墓がある。 |
燃え盛る三門の楼上で快川は、 「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」 と偈を発して焼死したのだと伝えられている。 |
4月10日、滞在していた躑躅ヶ崎館を出発した織田信長は、富士遊覧を楽しみながら4月21日に安土城へ帰還。 5月29日には、中国攻めを行っている羽柴秀吉の援軍のため上洛して本能寺に滞在するが、6月2日、明智光秀の謀反により横死している(本能寺の変)。 恵林寺の焼き討ちから2ヶ月後のことだった。 |
富士山見物をしながら帰還した織田信長〜甲州征伐〜 安土饗応〜織田信長・徳川家康・明智光秀と本能寺の変〜 |
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