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恵林寺の三門は、武田信玄の師であった快川紹喜(かいせんじょうき)の伝説が残された門(県文化財)。 1582年(天正10年)4月3日、武田征伐(甲州征伐)によって武田氏を滅ぼした織田信長は、恵林寺に匿われていた佐々木次郎(六角義定)の引渡し要求するが、これを拒否されたことから快川をはじめとする100余名の僧を三門に封じ込め、恵林寺を焼き討ちした。 快川は、燃え盛る三門の楼上で 「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」 (あんぜんかならずしもさんすいをもちいず しんとうめっきゃくすればひもおのずからすずし) と偈を発して焼死したのだと伝えられている。 |
恵林寺焼き討ち〜信長公記が伝える甲州征伐〜 |
快川紹喜(かいせんじょうき)は、美濃国出身といわれ、京都妙心寺の四十三世を勤めた禅僧。 美濃では、斎藤道三の嫡男斎藤義龍や明智光秀が参禅したのだという。 ただ、織田信長と意見が合わず、1564年(永禄7年)、武田信玄に招かれて恵林寺の住持となった。 |
1565年(永禄8年)、信玄の嫡男義信が謀反を企てたとして東光寺に幽閉された。 その際、快川は東光寺の藍田恵青・長禅寺の春国光新とともに信玄と義信の和解を試みたが・・・ 義信は1567年(永禄10年)10月19日、幽閉されていた東光寺で自刃してしまったのだという。 東光寺の藍田は、信玄の伯父といわれ、信長の恵林寺焼き討ちの際には、快川らとともに三門に封じ込められている。 |
信玄が用いた軍旗「風林火山」(孫子の旗)は、快川に書かせて作らせたものと伝えられる。 恵林寺にも所蔵されているが、武田神社や雲峰寺にも所蔵されている。 |
恵林寺は七朝帝師と呼ばれた夢窓疎石が開いた臨済宗の古刹。 戦国期には武田信玄が信仰し、明王殿裏には信玄の墓がある。 |
山梨県甲州市塩山小屋敷2280 JR中央本線塩山駅から甲州市市民バス西沢渓谷線・窪平線「恵林寺」下車。 JR中央本線山梨市駅から山梨市営バス西沢渓谷線し「隼上」下車。 |
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