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甲斐善光寺は、1558年(永禄元年)、合戦による信濃善光寺の焼失をおそれた武田信玄が本尊善光寺如来をはじめとする寺宝を山梨郡板垣郷に移したことに始まる(参考:川中島古戦場)。 正式名称は、定額山浄智院善光寺(浄土宗)。 開山は信濃善光寺大本願三十七世の鏡空。 1565年(永禄8年)に本堂が完成し、仮堂に収められていた善光寺如来の入仏供養が行われたという。 1582年(天正10年)、織田・徳川連合軍による甲州征伐によって武田氏が滅亡すると、善光寺如来は織田・徳川・豊臣氏を転々としたが、1598年(慶長3年)に信濃善光寺に戻されている。 江戸時代の甲斐善光寺は、徳川家の庇護を受け、本坊三院十五庵を有する大寺院として栄え、浄土宗甲州触頭(ふれがしら)となった。 |
※ | 板垣郷は、信濃善光寺を建立した本田善光を葬送した地と伝えられている。 |
※ | 甲州征伐では、武田勝頼を裏切った岩殿城主の小山田信茂がこの寺で処刑されている。 |
甲州征伐後、善光寺如来は織田信長の命により美濃国の岐阜城下に移されるが、間もなく信長は明智光秀の謀反により本能寺で横死(本能寺の変)。 その後、尾張国の清州城下に移され、 さらに徳川家康が三河国の吉田城下・遠江国の浜松城下を経て、甲斐善光寺に戻したのだというが・・・ 1595年(文禄4年)、京都では豊臣秀吉が方広寺に本尊の大仏を安置。 しかし、大仏は地震で大破してしまったため、1597年(慶長2年)、代わりに善光寺如来を本尊とするため京都に移した。 翌年、秀吉は病に倒れ、善光寺如来の祟りだと噂されたため、信濃善光寺に戻されるが・・・ 秀吉は翌日に死去。 |
1565年(永禄8年)、武田信玄によって建立された伽藍は、1754年(宝暦4年)の失火により焼失。 現在の山門・金堂は、1796年(寛政8年)に再建されたもので、いずれも重要文化財。 |
山門に安置されているのは未完成の仁王像。 |
金堂の天井の龍は日本一の「鳴き龍」。 戒壇廻りで錠前に触れると極楽浄土に行ける! |
7年に一度の御開帳 2022年(令和4年) |
信濃善光寺の御開帳に合わせて行われる7年に一度の儀式。 開帳されるのは、本尊の銅造阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)。 コロナ禍の影響で2021年(令和3年)開催予定が1年延期されての御開帳。 2022年(令和4年)4月3日(日)〜6月29日(水)の88日間。 長野県の元善光寺・愛知県の祖父江善光寺東海別院・岐阜県の関善光寺・同じく岐阜善光寺でも同時に開催される。 |
甲斐善光寺の「木造源頼朝坐像」は、胎内背面に文治3年(1319年)の銘があり、頼朝の命日である正治元年(1199年)正月13日の日付が記されることから、最古の頼朝像とされている。 源頼朝は、1179年(治承3年)に焼けた信濃善光寺を復興するため、1187年(文治3年)に比企能員を通じて信濃の御家人に再建を命じ、1197年(建久8年)には自らも参詣した。 その後も鎌倉幕府の保護を受け、善光寺信仰が広まり、善光寺如来の模造が多く造られた。 鎌倉円覚寺に伝わる善光寺式阿弥陀三尊像は、「1271年(文永8年)銘」のあるもの。 |
甲斐善光寺の宝物館には、源頼朝の他、源実朝・熊谷直実の彫像が展示され、いずれも最古といわるもので、信濃善光寺から伝えられたもの。 かつての信濃善光寺・甲斐善光寺には、源頼家の像もあって「源三代将軍堂」があったのだという。 |
※ | 信濃善光寺は、1268年(文永5年)と1313年(正和2年)の2度の火災に見舞われている。 源頼朝像の胎内墨書の「文治3年」(1319年)は、その修理が完成したことを示す銘だと考えられている。 |
※ | 写真は東京国立博物館の源頼朝像。 |
霊峰富士 |
信濃善光寺 |
JR中央線・酒折駅より徒歩15分 JR身延線・善光寺より徒歩7分 |
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