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川中島の戦いは、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が北信濃の支配権を巡って繰り広げられた合戦。 計5回にわたった両者の戦いは12年にも及び、最大の激戦だったのが1561年(永禄4年)の第4次の合戦。 八幡原の戦いとも呼ばれる。 第4次川中島の戦いの際に武田信玄が本陣を敷いた場所が川中島古戦場(八幡原)。 1561年(永禄4年)9月9日深夜、信玄は別働隊を謙信が布陣する妻女山へ向かわせ、山を下ってきた上杉軍を八幡原で挟撃する作戦をとるが、この作戦を見抜いた謙信は夜陰に乗じて妻女山を下山。 翌9月10日午前8時頃、八幡原の霧が晴れると武田軍の目の前に上杉軍が出現したのだという。 上杉軍の波状攻撃で、武田軍は武田信繁や山本勘助らを失った。 武田軍は劣勢だったが、昼前頃、妻女山の武田軍の別働隊が八幡原に到着したことで、謙信は善光寺に退き、夕刻に信玄も追撃を止めたことから戦いは終わった。 両軍合わせて約1万の死者を出した戦いだった。 |
川中島古戦場は、信玄と謙信の一騎打ちが行われたという場所。 信玄の本陣に攻め入った謙信は、信玄に三太刀斬りつけた。 信玄は軍配団扇(ぐんばいうちわ)でそれを返したが、軍配団扇には七つの傷が残っていたという。 |
八幡社は、平安中期に信濃国に流された源顕清が八幡神を祀ったことに始まるという。 信玄は、この八幡社を中心として本陣を敷いたことから命を免れたと伝えられている。 合戦後、信玄は破壊されてしまった社殿を高坂弾正に命じて再建させている。 その後は松代藩真田家が代々祭祀の運営を任されていたのだという。 現在の祭神は 誉田別尊(ほんだわけのみこと・応神天皇)、建御名方命(たけみなかたのみこと)。 |
信玄が本陣の土塁を築いた際に、自生していた槐(えんじゅ)の木を杭として、根の方を上にして打ち込んだものが芽を出したのだという。 |
謙信が信玄の本陣に切込んだ際、中頭の原大隅(はらおおすみ)が信玄の槍で謙信めがけて突き出したことで、信玄は危険な状態から逃れることができた。 一方、謙信を逃してしまい無念の原大隅は、傍らにあった石を槍で突き通したのだという。 |
合戦後、武田の家臣高坂弾正(海津城主)は、敵味方の別なく戦死者の遺体を葬り、遺品も上杉方に送り届けたのだと伝えられている。 これに感心した謙信は、信玄に塩を送って恩に報いたのだとか。 |
戦国時代、武田信玄と上杉謙信との川中島の戦いが繰り広げられたことで、善光寺の焼失をおそれた信玄は本尊(善光寺如来)と寺宝などの全てを甲斐国に移した。 信玄によって甲斐に創建されたのが、甲府市にある甲斐善光寺。 |
1582年(天正10年)、織田信長による武田征伐(甲州征伐)によって武田氏が滅亡すると、善光寺如来は美濃岐阜城下へ移され、同年、本能寺で織田信長が討たれると(本能寺の変)・・・ 織田信雄が尾張清州城下へ、徳川家康が遠江浜松城下、甲斐(甲斐善光寺)へと移し、1597年(慶長2年)には豊臣秀吉が甲斐から京都の方広寺に移した。 翌1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が病に倒れると、善光寺如来の祟りだと噂され、死の前日に信濃に戻されたのだという。 秀吉の死の直前に善光寺如来が枕元に立ち、信濃に戻りたいと告げたのだとも伝えられている。 |
長野市小島田町1384−1 長野駅善光寺口から古戦場経由松代行バス「川中島古戦場」下車 |
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