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この絵は、三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗し、浜松城に戻った徳川家康が描かせたものとされてきました。 憔悴した家康を表現した絵として「しかみ像」と呼ばれてきましたが・・・ 近年の研究では、この逸話は近代になってからの創作とされています。 それでは、どのような絵なのか? 高須藩五代藩主・徳川治行の正妻・従姫(よりひめ)の嫁入り道具に入っていた「家康の御影」なのだとか。 従姫の没後、家康の遺品や関連する物品を納める「御清御長持」(おきよめおんながもち)に収められたのだといいます。 徳川治行は松平義敏の長男。 名古屋藩九代藩主・徳川宗睦の養子となって徳川を名乗りました。 従姫は、和歌山藩七代藩主・徳川宗将の娘。 当時の名称は「東照宮尊影」。 紀州徳川家から尾張徳川家に伝わったこの絵は、死後に東照大権現の神号が授けられた家康を礼拝するため描かれたものなのかもしれない・・・ |
※ | 御清御長持は、尾張徳川家の重要な道具で、名古屋城の不入火御土蔵に保管されていた。 |
岡崎城に置かれている「しかみ像」は、「徳川家康三方ヶ原戦役画像」を基にして製作された石像。 |
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