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西来院は、1428年(正長元年)開創の曹洞宗の寺院。 本尊は釈迦牟尼仏。 1579年(天正7年)8月29日、徳川家康の命により殺害された正室・築山殿の廟堂がある。 |
月窟廟(げっくつびょう)は、徳川家康の正室・築山殿の廟堂。 子の松平信康とともに三河国の岡崎城で暮らしていた築山殿だったが・・・ 1579年(天正7年)、織田信長は、信康と築山殿が武田に内通したとして家康に殺害を命じる。 8月29日、築山殿は小藪村で家康の家臣・野中重政に殺害され、信康は9月15日に二俣城で自害させられている。 信康と築山殿への処罰は、信康に嫁いだ信長の娘・徳姫が訴えたことが原因とされているが・・・ 近年の研究では、家康と信康の対立が原因という説がある。 |
築山殿を殺害した野中重政、介錯を務めた岡本時仲、検使だった石川義房は、みな病となったり身内に不幸が起こったのだと伝えられている。 |
野中重政は故郷の遠江国堀口村に隠棲したが、その後、野中家では家族に度重なる不幸が続いたのだという。 月窟廟の入口にある石灯籠は、重政の孫で水戸藩士の野中重羽が慰霊のために寄進したもの。 |
築山殿〜正室を殺害し嫡男信康を自害させた徳川家康〜 松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜 徳姫・五徳・岡崎殿〜織田信長の長女・松平信康の正室〜 長勝院・お万の方〜結城秀康を産んだ徳川家康の側室〜 西郷局・お愛の方〜徳川秀忠を産んだ徳川家康の側室〜 大岡弥四郎の謀反〜岡崎城を制圧する予定だった武田勝頼〜 |
二俣城は、浜松城の防衛拠点となった城で、家康と武田信玄の激しい争奪が繰り広げられた。 1579年(天正7年)8月3日、岡崎城を出された信康は、大浜城・堀江城に移され、さらに二俣城に移された後、9月15日に自刃を命じられたのだと伝えられている。 |
清瀧寺は、徳川家康が松平信康の廟所として建立した寺院。 |
萬松院は、信康が自刃した当時、二俣城の城主だった大久保忠世が、のちに城主となった小田原城の城下に信康を供養するために創建した寺院。 信康を自害させたことを悔やんでいたという忠世は、1594年(文禄3年)、信康が自害した日と同じ9月15日に死去。 自身が創建した大久寺に葬られたのだという。 |
西念寺は、信康の介錯を命じられたという服部半蔵が信康の慰霊のために創建した安養院を前身とする寺。 信康の供養塔と半蔵の墓が残されている。 |
築山殿〜正室を殺害し嫡男信康を自害させた徳川家康〜 松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜 松平信康の介錯を命じられた服部半蔵 |
築山殿の事件後、武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍に攻められ、1582年(天正10年)3月11日、甲斐国天目山の麓で自刃。 同年6月2日、織田信長は、本能寺逗留中に明智光秀に攻められて自刃。 |
安土饗応〜織田信長・徳川家康・明智光秀と本能寺の変〜 |
静岡県浜松市中区広沢2−10−1 |
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