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大久寺(だいきゅうじ)は、豊臣秀吉の小田原征伐に参戦し、小田原城4万5千石を賜った大久保忠世が1591年(天正19年)に創建した日蓮宗の寺。 開山は、忠世が帰依していた日英。 1614年(慶長19年)、二代忠隣(ただちか)が改易となると寺も衰退し、1633年(寛永10年)には、忠隣の二男・石川忠聡(石川家成の養子)が江戸下谷に移転した。 その後、大久保康任が、もとの地に石塔、位牌を戻し、大久寺が再建されている。 |
右から・・・ 忠常 (忠隣の嫡男・1611年(慶長16年)、小田原城で死亡) 忠隣 (二代・晩年流罪となり、1628年(寛永5年)、近江国佐和山石ヶ崎で死亡) 忠世 (初代・1594年(文禄3年)死亡。 遺体の一部は京都・本禅寺に納められたという。) 忠良(忠勝の五男) 忠勝(忠俊の子) 忠俊(忠世の伯父) 忠良の娘 |
大久保忠世は、源頼朝に仕えた下野国宇都宮氏の三代当主・朝綱の子孫ともいわれる。 大久保氏の先祖は、新田義貞に仕えた後、三河国に土着し、松平氏三代当主の信光に仕えるようになったのだという・・・ |
大久保忠世の先祖は源頼朝に仕えた宇都宮朝綱? |
大久寺を創建した翌年、大久保忠世は、遠江国の二俣城で自害した徳川家康の嫡男・松平信康の菩提を弔うため萬松院を創建。 |
1579年(天正7年)、徳川家康は、三河国の岡崎城を任せていた嫡男・信康とその母・築山殿が武田に内通していたとして、8月29日に築山殿を殺害、9月15日には二俣城で信康を自害させた。 清瀧寺の信康の廟所には、当時、二俣城の城主だった大久保忠世の墓もある。 |
信康が自害させられた二俣城は、当時家康が本拠としていた浜松城の防衛拠点だった城。 家康と武田信玄の激しい争奪が繰り広げられた城で、長篠の戦い後、大久保忠世が城主となった。 |
大久保神社は、小田原藩初代藩主の大久保忠世と、二宮尊徳を起用して藩政改革を行った十一代藩主・大久保忠真を祀る社。 |
正恩寺は、大久保忠隣室の妙賢院が中興した寺。 |
小田原市城山4−24−7 箱根登山鉄道「箱根板橋駅」から徒歩5分 |
小田原市城内6−1 小田原駅から徒歩10分 |
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