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阿茶局(あちゃのつぼね)は、甲斐武田氏の家臣・飯田直政の娘。 駿河今川氏の家臣・神尾忠重と結婚して一子をもうけていたが、1577年(天正5年)に忠重は死去。 徳川家康が正室の築山殿を殺害し、嫡男の松平信康を切腹させた1579年(天正7年)に家康に召された。 築山殿と信康の事件については、不明な部分が多く、様々な説が出されているが・・・ 家康が精神的に落ち込んでいるときに現れたのが阿茶局だったのかもしれない。 |
馬術に優れ、戦場にも同行していたという阿茶局。 しかし、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いの際に流産して子を産めない身体になってしまったのだという。 1589年(天正17年)、のちに二代将軍となる徳川秀忠と尾張清州藩主となる松平忠吉の生母西郷局が亡くなると、二人の養育を任されている。 1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では、和議の使者となり、常光院(淀殿の妹)と交渉して和議を成立させた。 晩年の家康は江戸城から駿府城に移るが、その時、側室の中で唯一連れて行ったのが阿茶局だったのだとか・・・ 家康の死後、江戸に移ったが、1620年(元和6年)、秀忠の娘和子が後水尾天皇に入内する際には上洛して母親の代わりを務めた。 1626年(寛永3年)に後水尾天皇が二条城へ行幸した際には饗応などに関与。 後水尾天皇からは従一位を授けられ神尾一位・一位の尼と呼ばれたのだという。 1637年(寛永14年)、死去(83歳)。 戒名は雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉。 |
雲光院は、阿茶局の発願により建立された寺で、境内には阿茶局の宝篋印塔がある。 |
上徳寺は、紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルともいわれる源融(みなもとのとおる)の邸宅があった場所。 徳川家康が阿茶局を開基として建立したのだという。 |
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