平岩親吉の豊臣秀頼毒殺未遂の噂 |
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1611年(慶長16年)3月28日、徳川家康は豊臣秀頼を二条城に招き会見。 会見を取り持ったのは、加藤清正・浅野幸長ら豊臣家存続を願うものたちだった。 |
〜加藤清正が死んだことで毒殺の噂が流れた?〜 |
会見終了後、饗応の席が設けられたが・・・ 噂によると、 この時、家康は秀頼の毒殺を考えていたのだという。 そして、その意を受けた平岩親吉が遅効性の毒物を仕込んだ饅頭を用意し、自らが毒見をして秀頼に勧めたが・・・ 秀頼を護衛していた加藤清正がこれを察して毒入りの饅頭を食べてしまったのだとのだとか。 秀頼は救われたが、清正は6月24日に熊本城で死去。 毒見をしてみせた平岩親吉も12月30日に名古屋城で死去。 二人の死については史実だが・・・ いくら遅効性の毒とはいえ日が立ち過ぎているし、二人の死が半年も違うことから、毒入り饅頭を食べたことで死んだとは考えにくいのかも・・・ |
二条城は、徳川家康が京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として築城。 |
加藤清正は、豊臣秀吉に仕えて功績をあげ、肥後熊本城主となった武将。 ただ、関ヶ原の戦いでは徳川家康に付いている。 名古屋城の天守の石垣は清正が担当した。 |
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