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箱根神社の太刀「微塵丸」と「薄緑」は、それぞれ木曽義仲と源義経が奉納したと伝えられる名刀。 この二振の太刀は、箱根権現の別当行実から、仇討ちを目前に控えた曽我兄弟に与えられたのだという。 ※画像は「無料シルエットイラスト」より。 |
1183年(寿永2年)3月、源頼朝との関係が急激に悪化した木曽義仲。 嫡子の義高を人質として頼朝に差し出すことで和睦。 『曽我物語』によると・・・ 義仲は箱根権現を参拝し、義高の無事を祈願して、太刀・微塵丸を奉納したのだという。 |
木曽義仲墓 (大津市) |
清水八幡宮 (狭山市) |
頼朝と和睦した義仲は、1183年(寿永2年)7月28日、平家を都落ちさせて入京。 しかし、翌1184年(寿永3年)1月20日、頼朝が派遣した源範頼・源義経に攻められ、近江国粟津で討死した。 人質として鎌倉にいた嫡子義高も誅殺されている(清水八幡宮は義高を祀る社)。 それから9年後の1193年(建久4年)、富士裾野では曽我兄弟の仇討ちが発生。 『曽我物語』によると・・・ 仇討ち成就を祈願するため箱根権現を参拝した曽我兄弟。 その時、別当の行実は、兄の十郎祐成に木曽義仲奉納の微塵丸を与え、弟の五郎時致には兵庫鎖の太刀を与えたのだとか・・・ ※兵庫鎖の太刀は源義経奉納の薄緑のことか・・・? 『吾妻鏡』によると・・・ 1193年(建久4年)5月28日夜半、雷雨の中、曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟は、裾野に建ち並んだ宿舎に忍び込み、父・河津祐泰の仇・工藤祐経を討ち取った。 |
1185年(元暦2年)3月24日、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした源義経。 しかし、5月7日、壇ノ浦で捕えた平宗盛父子を護送して鎌倉へ向うが、兄の源頼朝は、義経が鎌倉に入ることを許さなかった。 そして、6月9日には「宗盛父子を護送して帰京せよ」と命じられる。 『平家物語』によると・・・ 梶原景時の讒言で鎌倉へは入れられず、腰越に逗留していた義経は、起請文を書くも力及ばず、空しく都に上る途中で箱根権現を参拝。 「兄弟の仲和らげしめ給へ」と祈願し、薄緑の剣を奉納したのだという。 |
それから4年後の1189年(文治5年)閏4月30日、義経は奥州平泉で最期を遂げる。 さらに4年が経った1193年(建久4年)5月28日、富士裾野では曽我兄弟の仇討ちが発生。 『平家物語』によると・・・ 曽我兄弟が工藤祐経を討つときに使われたのが、義経が奉納した薄緑。 箱根権現の別当行実から曽我兄弟に与えられたのだという。 曽我兄弟の仇討ち後、薄緑は源頼朝の手に渡ったのだとか・・・ |
源家には、源満仲が作らせた二腰の太刀が伝えられ、罪人を試し切りした際に、一つは髭まで切れたで「髭切」(ひげきり)と名付けられ、もう一つは膝まで切れたので「膝丸」(ひざまる)と名付けられたのだという。 「膝丸」は、源頼光が土蜘蛛を退治して以降「蜘蛛切」と改められ、源為義の頃には夜に蛇の泣くような声で吠えたので「吠丸」と改められた。 その後、為義から熊野別当行範へ、行範から熊野権現へ、熊野別当湛増から源義経へと渡り「薄緑」に改められたのだとか・・・。 |
源義経の「薄緑」は、多田満仲(源満仲)が作らせた太刀。 箱根路の石仏群の中には満仲の宝篋印塔がある。 |
箱根神社境内にある曽我兄弟を祀る社。 |
1180年(治承4年)、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、箱根権現(箱根神社)の別当行実を頼って逃れた。 のちに頼朝は走湯権現(伊豆山神社)・箱根権現の二所と三嶋社を参詣する「二所詣」を始めている。 |
神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80−1 伊豆箱根バス「元箱根」下車 箱根登山バス「元箱根港」下車 徒歩10分 |
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