|
多気義幹(たけよしもと)は、常陸国筑波郡多気を本拠とした武将。 つくば市北条にある五輪塔は、八田知家の策謀により所領を失った多気義幹の墓と伝えられている。 |
つくばエクスプレス「つくば駅」から、つくバス小田シャトルで「北条三差路」下車。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1193年(建久4年)5月28日、源頼朝が催した富士裾野の巻狩りで、曽我兄弟が工藤祐経を殺害するという事件が発生(曽我兄弟の仇討ち)。 6月5日、事件を聞いた常陸国の八田知家は、すぐに駆けつけようとするが・・・ その時、同じ常陸国の多気義幹(たけよしもと)を陥れるための策謀を巡らせた。 知家は、一人の下男を義幹に遣わして 「八田知家が軍勢を集め、多気義幹を討とうとしている」 という噂を流させた。 それを聞いた義幹は防戦の準備を始めて城に立て籠った。 そこへ知家は義幹へ使いを出して 「富士野の旅館で乱暴狼藉があったという噂なので、同道願いたい」 と伝えたが、義幹は 「思うところがあるので同道できない」 と答え、さらに防備を固めたのだという。 6月12日、知家は義幹の謀反を訴えた。 鎌倉に戻っていた頼朝は、義幹に出頭するよう命じると、6月22日、呼び出された義幹が参上。 知家の訴えは、 「先月の曽我兄弟の乱暴狼藉を今月の4日に聞き、すぐに駆けつけようと思い、多気義幹にも同道を呼びかけましたが、義幹は兵を集めて籠城し、叛逆を企てました」 というもの。 義幹は弁解できず、常陸国筑波郡、南郡、北郡などの領地が没収され、身柄は岡辺泰綱に預けられた。 没収された所領は、一族の馬場資幹(ばばすけもと)に与えられている。 その後の多気義幹の消息は不明。 |
※ | 八田知家と多気義幹は所領が隣接していて、かねてより権勢を争っていた。 |
※ | 馬場資幹は常陸国馬場を本拠としていた武将で、事件後、常陸大掾に任ぜられている。 |
小田城は、常陸国筑波郡小田邑を本拠とした小田氏の居城。 小田氏の祖八田知家が1185年(文治元年)に築いたのだと伝えられている。 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|