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根本中堂は、 寛永寺の本堂。 五代将軍徳川綱吉の時代の1698年(元禄11年)に、柳沢吉保を惣奉行として現在の東京国立博物館付近にあった本坊に創建された。 当時の建物は1868年(慶応4年)の彰義隊の戦い(上野戦争)で焼失。 現在の建物は、1876年(明治9年)から1879年(明治12年)にかけて、子院だった大慈院跡に、武蔵国川越の喜多院の本地堂を移築したもの。 1638年(寛永15年)の建造物といわれている。 本尊は、最澄(伝教大師)作と伝わる薬師瑠璃光如来像(秘仏・国重文)。 |
創建当初の根本中堂は、現在の上野公園大噴水のあたりにあって、間口45.5メートル、奥行42メートル、高さ32メートルという大規模な仏堂で、中堂と呼ばれていた。 根本中堂前には、常行堂と法華堂が左右に並び建ち、その間は屋根付きの高廊下で繋がれ、参詣者は高廊下の下をくぐって根本中堂へ向かったのだという。 常行堂と法華堂をつなぐ様式は天台宗特有のもの。 |
天海の寛永寺は、比叡山延暦寺をはじめとする京都周辺の寺社に見立てて設計された。 延暦寺の西塔にある「にない堂」は、同形の2棟の建物が廊下で繋がれたもの。 |
輪王寺の常行堂は、比叡山延暦寺の「にない堂」を模して建てられた。 |
彰義隊の戦い(上野戦争)で最大の激戦地となったのが、寛永寺の総門。 黒門と呼ばれていたが、1907年(明治40年)、荒川区南千住の円通寺に移築された。 |
永代橋が最初に架けられたのは、1698年(元禄11年)。 木橋で、根本中堂造営の際の余材が使われたのだという。 |
渋沢栄一は、徳川家ゆかりの寛永寺・浅草寺でそれぞれ檀家総代・信徒総代を務めた。 |
【根本中堂所在地】 東京都台東区上野桜木1−14−11 |
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