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若い頃の渋沢栄一は、討幕を志し、尾高惇忠らと横浜外人居留地の焼討ちを計画したこともありましたが・・・ 実業家として、横浜の経済発展に大きく関わっています。 |
1854年(嘉永7年)、横浜にぺりーが来航し、日米和親条約(神奈川条約)が締結され、下田と箱館(現在の函館)を開港します。 そして、1858年(安政5年)、神奈川湊沖で日米修好通商条約が締結され、翌年横浜が開港しました。 |
1863年(文久3年)、渋沢栄一は、尾高惇忠らと高崎城の襲撃や横浜外人居留地の焼討ちを計画しますが、惇忠の弟長七郎の説得により中止しています。 |
1859年(安政6年)に開港した横浜は、外国商人たちが日本の生糸を買い求めて輸出が急増。 そんな中で活躍した生糸売込商の多くが中居屋重兵衛、渋沢栄一の従兄の渋沢喜作、茂木惣兵衛などの生糸の産地として知られていた上野国(群馬県)、武蔵国(埼玉県)の出身者でした。 |
中居屋重兵衛店跡 |
シルクセンター |
中居屋重兵衛は、横浜で上州生糸の貿易を独占しました。 シルクセンターは、かつて世界一の輸出量を誇った日本の生糸と絹産業の振興を目的として開館した施設。 |
渋沢喜作(成一郎)は、武蔵国血洗島村(現埼玉県深谷市)の出身で渋沢栄一の従兄。 1875年(明治8年)、喜作は、生糸貿易と生糸委托販売を営む渋沢商店を現在の横浜市中区本町三丁目に創業。 しかし、1889年(明治22年)には多額の損失を抱えて、長男の作太郎に譲ることを条件に栄一が借金を肩代わりして整理したのだという。 |
三溪園は、絹の貿易により富を築いた原富太郎(三溪)が造った庭園。 渋沢栄一は、インドの詩人タゴールが来日したとき、原富太郎邸に滞在していたタゴールを訪問したのだといいます。 |
横浜為替会社は、1869年(明治2年)設立され、1872年(明治5年)には、渋沢栄一が関わって制定された国立銀行条例に基づいて、第二国立銀行に組織変更し、横浜の産業を支えました。 |
横浜正金銀行は、1880年(明治13年)に開設された国立銀行条例準拠の銀行。 現在の三菱UFJ銀行の前身とされています。 渋沢栄一は、この銀行の株主でした。 |
1927年(昭和2年)、日米親善のためアメリカから贈られた約12000体の人形。 人形受け入れに尽力したのが渋沢栄一でした。 |
開港紀念横浜会館(横浜市開港記念会館)では、「青い目の人形」の歓迎会が行われ、日本からアメリカに送られた「黒い目の人形」の送別会が行われました。 |
かつての横浜港には、渋沢栄一が設立に関わった横浜船渠(よこはませんきょ)という造船所がありました。 現在、日本丸が係留されているのは第一号船渠。 |
山下公園前へ係留されている氷川丸は、横浜船渠で建造されました。 |
日本初のガス灯 |
日本ガス事業 発祥の地 |
横浜は、ガス事業発祥の地。 高島嘉右衛門によって横浜にガス灯が点されると、2年後には東京の銀座でも点灯されました。 そして、現在の東京ガス株式会社の前身となる東京瓦斯会社が渋沢栄一らによって設立されることとなります。 |
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