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尾高惇忠生家は、江戸時代後期に惇忠(あつただ)の曾祖父磯五郎が建てたと伝えられている。 尾高家は、米穀・塩・菜種油の販売や藍玉の加工販売を主とした商家だったが、農業も営んでいた。 屋号は油屋。 平成15年前後までは、藍玉の製造や菜種油などの搾取を行った長屋もあったのだという。 |
裏にあるレンガ造の倉庫は、明治30年頃の建造物で、渋沢栄一らが設立した日本煉瓦製造株式会社のレンガを使用している可能性がある。 |
尾高惇忠は、1830年(文政13年)7月27日、武蔵国榛沢郡下手計村(現在の埼玉県深谷市下手計)の名主尾高勝五郎保孝の子として誕生。 若き頃の惇忠は、自宅に開いた私塾「尾高塾」で、近郷の子弟たちを集めて学問を教えたのだという。 血洗島村の渋沢栄一も子弟の一人。 惇忠の母・やへは栄一の父・渋沢元助の姉。 惇忠と栄一は従兄弟。 「藍香ありてこそ、青淵あり」と言われ、栄一の人生に大きな影響を与えた人物。 藍香は惇忠の雅号、青淵は栄一の雅号。 |
のちに、惇忠の妹千代は栄一の最初の妻となり、弟平九郎は栄一の養子となっている。 |
幕末の尊王攘夷の思想の影響を受けた惇忠は、1863年(文久3年)、栄一らと高崎城の襲撃や横浜外人居留地の焼討ちを計画するが、弟の長七郎の説得により中止。 この年、武蔵国榛沢郡北阿賀野村の桃井可堂は、挙兵に失敗して自害している。 1868年(慶応4年)の戊辰戦争では、渋沢成一郎(惇忠や栄一の従兄弟)が結成した彰義隊に参加。 彰義隊は徳川慶喜警護などを目的とした部隊。 しかし、江戸城開城後、副頭取の天野八郎と対立し、成一郎とともに彰義隊を脱退して振武隊を結成。 5月15日、上野で彰義隊が新政府軍(官軍)に敗れると、振武隊は高麗郡飯能の能仁寺(現在の飯能市)に本営を置き、5月23日に官軍と交戦するが敗退(飯能戦争)。 この戦争で弟の平九郎が自決したが、惇忠は成一郎とともに箱館まで転戦した。 |
渋沢栄一の生地「旧渋沢邸 中の家」には、飯能戦争で自刃した尾高惇忠の弟平九郎の追懐碑が建っている。 |
明治維新後は、大蔵省の官僚となっていた渋沢栄一の縁で、1872年(明治5年)に開業した富岡製糸場の初代場長に就任。 長女の勇(ゆう)は、その最初の工女となっている。 1877年(明治10年)からは、栄一が設立した第一国立銀行の盛岡支店、仙台支店に勤務し、製藍法の改良・普及にも尽力した。 |
富岡製糸場は、日本初の本格的な器械製糸の工場。 建設現場を取り仕切ったのは尾高惇忠。 建築資材の煉瓦は韮塚直次郎に依頼、煉瓦を接着するためのモルタルは左官職人の堀田鷲五郎・千代吉親子に依頼し、苦難の末、富岡製糸場を完成させた。 |
埼玉県深谷市下手計236 見学時間:午前9時~午後5時 休館日:年末年始 (12月29日~1月3日) 入館無料 |
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