|
北阿賀野の稲荷神社の創建は、1590年(天正18年)の徳川家康江戸入府の頃と伝えられている。 祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。 |
渋沢栄一が撰文した碑。 桃井可堂(もものいかどう)は、幕末の志士・儒学者。 武蔵国榛沢郡北阿賀野村の百姓福本守道(宗左衛門)の次男として生まれ、「深谷の吉田松陰」と呼ばれた人物。 名は儀八、号は可堂。 尊王攘夷派から忠臣として賞賛されていた新田氏の後裔なのだという。 渋沢仁山に師事して儒学を収め、22歳で江戸の東条一堂に学び、清川八郎・那珂梧楼と併せて門下の三傑と称された。 その名声により、備中庭瀬藩の板倉勝資に招聘されたが、1853年(嘉永6年)に米艦(黒船)が来航して世の中が落ち着かない状況の中で、水戸藩士藤田東湖の尊王攘夷思想に共鳴し、徳川斉昭のもとに上がろうとしたが、東湖の死によって果たせなかった。 その後、安政の大獄などがあって幕政が日毎に不安定となる中、失望して庭瀬藩の職を辞して帰郷。 中瀬村に塾を開いて尊攘派の志士を育成し、1863年(文久3年)に慷慨組を結成。 新田義貞の末裔岩松俊純を擁して兵を挙げ、外人をはらいのけ、幕府を倒そうと計画したが、仲間の裏切りにあい失敗し、自らが一切の責任を負って川越藩に自首。 幽閉されていた江戸の福江藩邸で、絶食して死去した。 |
※ | 桃井可堂が挙兵した1863年(文久3年)は、渋沢栄一・尾高惇忠らも挙兵を計画していたが、中止している。 |
埼玉県深谷市北阿賀野1 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|