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旧渋沢邸「中の家」(なかんち)は、渋沢栄一が生まれた血洗島にある建物。 1895年(明治28年)に栄一の妹夫妻が再建した主屋や土蔵が残されている。 栄一が帰郷した際に寝泊まりしたという部屋も残されている。 東京にあった栄一の私邸は、空襲によって焼失してしまったため、この家は栄一が親しく立ち寄った、現存する数少ない場所。 栄一の生家は、養蚕や藍玉づくりとその販売をしていた農家で、雑貨屋、質屋なども営んでいた。 栄一はここで生まれ、満23歳まで暮らした。 渋沢家の住宅等として使われてきたが、1985年(昭和60年)からは「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され多くの外国人留学生が学んだのだという。 2000年(平成12年)、学校法人の解散に伴い深谷市に帰属。 旧渋沢邸「中の家」は市の指定史跡。 「渋沢栄一生地」として県の旧跡にも指定されている。 |
栄一が生まれた血洗島村には、渋沢姓を名乗る家が17軒あったことから、「東の家」「西の家」「中の家」「前の家」「新屋敷」などという呼び名があったのだという。 栄一の父・市郎右衛門は「東の家」の三男として生まれたが、「中の家」に養子に入ったらしい。 |
日光の神と赤城の神が戦ったとき、腕を斬られた赤城の神がその傷を洗った所。 あるいは・・・ 八幡太郎義家が、利根川岸の戦いで片腕を切り落とされ、その血を洗った所。 という伝説があるらしい。 そして、腕を葬った所が、栄一の学問の師だった尾高惇忠が生まれた手計(手墓)村だったのだとか・・・ |
1867年(慶応3年)、栄一は、パリで行われた万国博覧会視察のため、十五代将軍徳川慶喜の異母弟・徳川昭武の随員として渡仏している。 |
旧渋沢邸にある三基の碑は、栄一が眠る谷中霊園にあったが、渋沢家墓所の整理縮小にあたって子孫より寄贈されたもの。 |
栄一の父渋沢美雅の碑。 撰文は尾高惇忠。 |
栄一翁の母渋沢えいの碑。 撰文は栄一。 |
渋沢平九郎は、1847年(弘化4年)に武蔵国榛沢郡下手計村(現在の深谷市下手計)に誕生。 父は名主だった尾高勝五郎保孝。 富岡製糸場の初代場長となった尾高惇忠は兄。 渋沢栄一は従兄。 栄一が徳川慶喜に仕えて幕臣になると養子となった。 大政奉還・王政復古の大号令・鳥羽伏見の戦いという幕末の激動の中、従兄の渋沢成一郎(喜作)が中心となって結成された彰義隊・振武軍に参加して新政府軍との戦いに挑んだが、1868年(慶応4)、飯能戦争で自刃。 撰文は栄一。 |
渋沢栄一の雅号「青淵」は、生家の裏にあった淵に由来し、尾高惇忠に付けてもらったのだという。 青淵由来之跡の碑は、旧渋川邸の裏の青淵公園に建てられている。 |
飛鳥山邸跡 (東京都北区) |
渋沢栄一の墓 (東京:谷中霊園) |
深谷市血洗島247-1 開館時間:午前9時~午後5時 休館日:年末年始 (12月29日~1月3日) 入館無料 |
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