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西行は、藤原秀郷の子孫で、北面の武士として鳥羽上皇に仕えた武士であったが出家して「西行」と称した。 江の島道(旧片瀬道)に建てられた江の島道標の一つに「西行もどり松」と刻まれたものがある。 昔、見事な松があって、東国を訪れた西行が、 「その枝振りの見事さに都が恋しくなり、都の方を見返って、枝を西にねじった」 と言い伝えられている。 「見返り松」とも「ねじり松」とも呼ばれていた。 江の島道標は、江戸時代に活躍した鍼師杉山検校が目の不自由な人にも江の島参詣ができるようにと建てたもの。 |
西行がこの松の木の近くで出会った童に 「どこへ行く」 と問いかけたところ、 「夏枯れて冬ほき草を刈りにいく」 という歌を詠んだという。 しかし、西行はこの歌の意味がわからず、恥ずかしさから都に引き返したという伝説も残されている。 西行と童の伝説は各地に残されていて、寄居町末野を流れる逆川の土橋での話は「もどり松」の話とよく似ている。 そのときの童は 「冬ぼきの夏枯草を刈りに行く」 と詠んだという。 この歌の「冬ぼき」やもどり松の「冬ほき草」とは「麦」のことで、西行はその草が何の事なのかがわからなかったといわれている。 この橋は「西行戻り橋」と呼ばれている。 |
西行は、1186年(文治2年)、東大寺大勧進職の重源に頼まれ、奥州への旅をしている。 その時に鎌倉に立ち寄り源頼朝に面会したことは有名な話となっている。 『吾妻鏡』によれば、この年の8月15日、鶴岡八幡宮の放生会に参詣しようとした源頼朝は、徘徊している老僧を発見した。 それが西行だったのだという。 頼朝は西行を御所に伴って和歌と弓馬について質問するが、 「弓馬のことは兵法書をなくしてしまったので忘れてしまったし、歌は花鳥風月に心を動かされたときにその気持を三十一文字に託すだけでその奥旨も知らない」 と答えたという。 結局、弓馬については語ったが和歌については何も語らず去ったといわれている。 翌年から奉納されるようになった「流鏑馬」は、西行から聞いた弓馬の話がきっかけとなっているといわれている。 |
※ | 西行もどり松の伝説と東大寺勧進の旅の時期が同じかどうかはわかならない。 |
江の島道標は、江ノ島に参籠し弁財天のおかげで「管鍼法」(かんしんほう)の技術を考案した杉山検校が建てたもの。 現在、藤沢市には12基の道標が残されていて、市の重要文化財に指定されている。 四面のうち三面に「一切衆生」「ゑのしまみち」「二世安楽」と刻んであるが、「西行もどり松」の道標は四面に「西行もどり松」と刻みつけられている。 |
藤沢市役所 |
州鼻通り |
西行もどり松が植えられていたという本蓮寺。 |
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