鎌倉手帳(寺社散策)

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杉山検校の福石
〜江の島〜

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江の島福石


 杉山検校は、江ノ島の弁財天で21日間の断食をし、祈願したところ、その満願の日、帰り道にこの石につまずいた。

 その時、体を刺すものがあったので確かめてみると、松葉の入った竹の管だったいう。

 この出来事が、管鍼(かんしん)の技術を考案するきっかけとなったといわれている。 


江の島福石
杉山和一総検校


 杉山検校(すぎやまけんぎょう)は、江戸時代に活躍した「鍼師」。

 本名は和一(わいち)。

 「検校」(けんぎょう)という名称は、盲官の最高位のこと。

 和一は、幼いときに失明し、鍼医を学んでいたが不器用で上達しなかった。

 ある時、江ノ島の弁財天社に21日間籠もって祈願したところ、その満願の日に「福石」につまずいた。

 この出来事が「管鍼法」(かんしんほう)が生まれるきっかけとなったといわれている。

 管鍼の技術を考案した和一は、徳川5代将軍綱吉の信頼を得て、鍼治療をした褒美に江戸本所一つ目に領地を得た。

 1693年(元禄6年)、綱吉の命により「杉山流鍼治導引稽古所」が設立されている。









杉山検校の墓
杉山検校の墓

 1689年(元禄2年)、和一は、関八州の当道盲人を統括する「惣禄検校」となり、本所一つ目の屋敷は「惣禄屋敷」と呼ばれた。

 1694年(元禄7年)、本所の私邸で亡くなり弥勒寺に葬られた。

 江ノ島にある笠塔婆型の墓石は、翌年、一周忌に際して、門人の三浦安一が建てたもので、墓の前の灯籠は、柳沢吉保室が寄進したものという。


江の島道標
江ノ島弁財天道標

 現在、藤沢市には、和一が建てた「江ノ島弁財天道標」が12基残されている。

 1966年(昭和41年)に市の重要文化財に指定された。

 写真の道標は、江ノ電「江ノ島駅」から江ノ島へと向かう「州鼻通り」のもの。

 参考:西行もどり松(江ノ島弁財天道標)



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鍼師「杉山検校」と江の島弁財天





江の島

 福石は、瑞心門の石段を上がった所。

 そこから下って朱塗りの橋を渡った場所には、検校が建てた三重塔があったという。

 その場所から、さらに海へと下る途中に検校の墓がある(旧下之坊墓地)。





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その1:江の島弁天橋〜青銅鳥居〜辺津宮

その2:中津宮〜御岩屋道通り

その3:奥津宮〜稚児ヶ淵〜岩屋








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江の島
リンクボタン江の島

 江の島は、砂が堆積して湘南海岸と島とが陸続きとなった陸繋島
 鎌倉時代には源頼朝が弁財天を勧請。
 江戸時代には、大山江の島の二所詣が流行し賑わった島。


江ノ電「江ノ島駅」から徒歩25分
小田急「片瀬江ノ島駅」から徒歩20分
湘南モノレール「湘南江ノ島駅」から徒歩27分









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