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河村義秀は、1180年(治承4年)の石橋山の戦いで源頼朝を破った大庭景親の家人だった人物。 のちに、大庭景義に預けられ、すでに処刑されているはずであった。 しかし、1190年(建久元年)の流鏑馬の射手の一人が故障してしまい、神事が中止となる事態になろうとしたところ、大庭景義が頼朝の前に出て、河村義秀を推薦した。 処刑したはずの河村義秀が生きていることに頼朝は驚いたが、「し損じた場合は重ねて罪科問うべし」として景義の願いを聞き入れた。 義秀は期待に応えて悉く的を射抜き、赦免されたという。 |
1190年(建久元年)8月の鶴岡八幡宮の放生会は、この年より2日間に分けて行われています。 流鏑馬は、2日目の8月16日に行われました。 『吾妻鏡』によると・・・ この日の流鏑馬の射手のうち、具合が悪くなった者が出ました。 その時に大庭景義が・・・、 「1180年(治承4年)、石橋山で大庭景親に味方した河村三郎義秀は、囚人として景義が預かっております。 義秀は、弓馬の芸に優れた者です。 あの時に敵対した連中の殆どが許されましたが、義秀だけが深く沈んだままとなっております。 このような時に召し出してみてはいかがでしょう?」 と頼朝に申し上げました。 すると頼朝は・・・、 「その者は死罪に処すよう命じたはずである。 今、生きているというのは不思議な話だ。 しかしながら、神事であるので、早く召し出すように。 ただし、満足することができなければ、改めて死罪とする」 と命じ、義秀に流鏑馬を射させました。 頼朝が義秀の放った矢をみると、矢の長さは十三束、鏑は八寸もありました。 そこで頼朝は・・・、 「義秀は、弓矢の芸にうぬぼれて、景親に味方したことは、その罪を考えると、今でもとんでもないことである。 その腕で、三種類の的を射るように。 失敗すれば、すぐに死刑を執行する」 と命じます。 義秀は、その弓矢の芸を披露します。 そして、三尺・手挟・八的などの難しい的を見事に射抜き、頼朝を感心させました。 後日(9月3日)・・・ 大庭景義が頼朝に 「河村義秀は、打ち首にしましょうか?」 と申し上げます。 すると頼朝は、「流鏑馬の褒美に許したのに、今さら何の罪にできるのだ」 と問います。 景義が申すには・・・ 「義秀は、これまでは囚人でしたので景義が援助していましたが、 囚人でない者を助けようがありません。 このままでは餓死してしまうでしょう。 殺してあげた方が義秀にとってはよいのではないでしょうか」 とのことでした。 頼朝は、大笑いして、相模国河村郷の所領を安堵したといいます。 |
鶴岡八幡宮例大祭で奉納される流鏑馬は、1187年(文治3年)8月15日、源頼朝が放生会を催した際に奉納したのがその起源だという |
鎌倉まつり |
例大祭 |
鶴岡八幡宮では、4月の鎌倉まつりで武田流流鏑馬が、9月の例大祭で小笠原流流鏑馬が奉仕される。 |
2022年2月8日、鎌倉市観光協会の方から本ページの記載についてお電話をいただきました。 鎌倉まつりの開催時期・期間については、4月の第2日曜から第3日曜が恒例となっていましたが、そういった決まりはないそうですので、本ページは参考としてご覧いただき、開催の有無・開催時期・期間等につきましては、鎌倉市観光協会にお問い合わせ願います。 |
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