|
馬場の周囲に設けられる柵は「埒」(らち)と呼ばれます。 この埒が取り払われることを「らちがあく」といいます。 物事がすっきりと終わることを意味します。 現代では「らちがあかない」という否定的に使用されることの方が多いようですが・・・ |
「らちがあく」は上賀茂神社の競馬会(くらべうまえ)から生まれた言葉なのだとか。 上賀茂神社では、葵祭に先立って競馬会が行われます。 境内には埒が設けられて入場が制限されますが、競馬会が終わって埒が取り払われると自由に神社に入れるようになります。 その事を「らちがあいた」と言ったのだそうです。 また、競馬の騎手(乗尻)は、約1か月間にわたって飲酒や肉食などを慎んで神事にのぞむことから、普段の暮らしに戻れることを「らちがあいた」といったのだとか・・・ |
乗尻(のりじり)は葵祭の行列を先導する騎馬隊。 競馬会の騎手が務めます。 |
鶴岡八幡宮の流鏑馬神事でも馬場には埒が結ばれます。 |
賀茂祭(葵祭)は、賀茂神社の祭礼。 |
賀茂別雷神社 (上賀茂神社) |
賀茂御祖神社 (下鴨神社) |
賀茂神社は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の総称。 古くより朝廷から崇敬され、794年(延暦13年)の平安遷都後は山城国の一之宮となり、王城鎮護の神として一層崇敬され、802年(大同2年)には正一位の神階を受け、賀茂祭(葵祭)は勅祭とされました。 石清水八幡宮の例祭(石清水祭)・春日大社の例祭(春日祭)と賀茂祭(葵祭)は三大勅祭です。 |
『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府政所の別当だった大江広元は、後白河法皇の法住寺殿を修繕するため在京した時、賀茂祭に供奉したらしい。 |
『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府四代将軍の九条頼経は、上洛した際、賀茂祭を見物したらしい。 |
葵祭前日(5月14日)、琵琶湖西岸・堅田から下鴨神社へ鮒が献上される。 |
申餅 |
みたらし団子 |
かつての葵祭では、申の日に申餅を供え、無病息災を祈願したのだといいます。 「みたらし団子」は、下鴨神社の御手洗池の底から湧き出る水泡をかたどったのだといわれています。 |
清少納言は『枕草子』に、斎王が上賀茂神社から紫野の斎院に帰る行列は、本当に素晴らしいと記しています。 |
清少納言の父清原元輔は、奉幣使として加わった賀茂祭で落馬。 冠が滑り落ちて禿げ頭を晒してしまったのだとか。 |
藤原道綱母は、賀茂祭見物の際、藤原時姫に連歌対決を挑んだ・・・ |
|