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八幡八雲神社(はちまんやくもじんじゃ)は八王子の総鎮守。 924年(延長2年)、武蔵国守の小野隆泰が多摩郡横山荘に京都の石清水八幡宮を勧請したことに始まる。 1598年(慶長3年)、八雲神社が合祀された。 八雲神社は、916年(延喜16年)に近江国の八王子社を勧請したことに始まるといわれ、八王子という地名の由来となったのだという。 祭神は、誉田別尊と素盞嗚尊。 創建者の小野隆泰の子・義孝は武蔵権守に任ぜられ、横山荘に館を構えて横山を名乗り、武蔵七党の一つ横山党の始祖となる。 八幡八雲神社が鎮座する地は、横山氏の館跡(本拠地)と伝えられる。 |
平安時代の武蔵国は牧畜に適した台地が広がり、多くの牧が設けられ、その管理者の中から中小武士団が誕生することになる。 横山党は、武蔵国や相模国に割拠した同族的武士団。 秩父氏・梶原氏・和田氏・渋谷氏などと婚姻関係を結びながら勢力を拡大していった。 畠山重忠の父重能や梶原景時の母は横山孝兼の娘。 横山時重の娘は和田義盛、横山時広の娘は渋谷高重の妻となっている。 さらに、横山時兼の妹が和田義盛の長男常盛の妻となり、和田一族と深いつながりをつくったが・・・ 1213年(建暦3年)、和田義盛は打倒北条義時の挙兵をして敗れ、加担した横山時兼は甲斐国に逃れて自刃(和田合戦)。 横山荘は没収され大江広元に与えられた。 八幡八雲神社の境内にある横山神社は、1214年(建保2年)に大江広元が横山党の始祖横山義孝を祀るために建立したのだと伝えられている。 |
『吾妻鏡』によると、横山党の始祖義孝の孫にあたる経兼は、前九年の役で討ち取った安倍貞任の首を長さ八寸の鉄釘で打ちつけて晒したのだという。 1189年(文治5年)、奥州征伐を行った源頼朝は、その例にならって、藤原泰衡の首を八寸の鉄釘で打ちつけて晒すことを横山時広に命じたのだという。 |
1205年(元久2年)の畠山重忠の乱で重忠を討ち取ったという相模国愛甲郡の愛甲季隆は横山党。 1213年(建暦3年)の和田合戦で討死にしている。 |
廣園寺は、和田合戦後に横山荘を手に入れた大江広元の館跡に建てられたという伝承があるらしい。 |
東京都八王子市元横山町2−15−27 JR線・京王線「八王子駅」から徒歩10分 |
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