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瀧山寺(たきさんじ)は、桓武天皇の時代に建立された吉祥寺を始まりとする。 その後、荒寺となってしまうが、保安年間(1120-1123) に比叡山で修行した永救(えいぐ)によって再興され、鎌倉時代には熱田神宮大宮司藤原季範の孫で、源頼朝の従兄弟の寛伝が住持。 頼朝は寛伝を下野国の日光山輪王寺(当時は満願寺)の座主に任じている。 国の重要文化財に指定されている聖観音菩薩及び両脇侍〈梵天・帝釈天〉像は、寛伝が頼朝追善のため運慶・湛慶父子に造立させたものだと伝えられている。 足利氏の庇護も受け、国の重要文化財の本堂は足利尊氏の寄進なのだという。 室町・戦国期には衰退するが、江戸時代になると徳川家康の庇護を受けて興隆し、徳川家光の命により東照宮が建立された。 家光寄進の太刀銘長光と家綱寄進の太刀銘正恒は国の重要文化財に指定されている。 明治に入ると東照宮は分離され、規模は縮小された。 本尊は薬師如来。 山号は吉祥陀羅尼山。 院号は薬樹王院。 |
三門は、1267年(文永4年)に飛騨の内匠・藤原光延が建立したと伝えられる(国の重要文化財)。 |
寛伝は、熱田神宮大宮司藤原季範の孫。 源頼朝の母由良御前の兄・藤原範忠の子。 少年期に瀧山寺に入っていた由良御前の弟・長暹のもとで天台僧として修行し、後に真言宗の仁和寺で修行を積んだのだという。 1182年(寿永元年)、頼朝は座主争奪で混乱が生じていた日光山満願寺(輪王寺)の座主に寛伝を推挙。 寛伝が十九世座主となったことで混乱は収まったが、衆徒との関係が悪化して二か月で三河に戻ったのだと伝えられている。 その後、寛伝は瀧山寺に入り、額田郡(現在の岡崎市・豊田市)に六十六郷もの領地を得たのだという。 |
輪王寺 |
二荒山神社 |
下野国(栃木県日光市)の輪王寺・二荒山神社と、徳川家康の廟所として開かれた東照宮の寺社群は、江戸時代まで日光山と呼ばれていた。 |
瀧山寺は下野国足利荘を本拠とした足利氏の庇護も受けた。 初代足利義康の正室は熱田神宮大宮司藤原季範の養女(範忠の娘)で寛伝の義兄。 二代当主の義兼は源頼朝の重臣として活躍し、三代当主の義氏は本堂を建立しているのだという。 現在の本堂は、八代当主で征夷大将軍となった足利尊氏の寄進と伝えられている。 |
宝物殿に安置されている聖観音菩薩及び両脇侍〈梵天・帝釈天〉像は、1201年(正治3年)、寛伝が源頼朝の三回忌に運慶とその長男湛慶に造立させたものと伝えられる。 聖観音像は頼朝の等身大で、頼朝の鬚(あごひげ)と歯が納められているのだという(X線検査の結果、胎内に歯らしきものがあることが確認されている。)。 |
室町期になると、室町幕府の方針により臨済宗が重視されたため、天台宗の瀧山寺は衰退してしまうが・・・ 江戸時代になると徳川家康によって再興され、徳川家光の時代には比叡山の天海の弟子・亮盛が住持。 亮盛は、天海が開いた寛永寺の子院・青龍院の住職と兼務したのだという。 |
1646年(正保3年)には家光の命により境内に東照宮が創建された。 当初は徳川家の菩提寺である大樹寺境内に建立される予定だったらしい。 瀧山寺境内となった理由は不明だが、家康が生まれた岡崎城からみて鬼門(北東)にあたるということもあるのかもしれない。 瀧山東照宮は三大東照宮の一つとも・・・ |
久能山東照宮は、徳川家康が埋葬された場所で、家康を祀る東照宮の創祀とされる。 |
日光東照宮の奥院には、改葬された家康の廟塔がある。 |
瀧山寺本堂の背後、瀧山東照宮に隣接して建てられているのは日吉山王社本殿。 日吉山王社は、近江国の日吉大社を勧請して創建され、現在の本堂は瀧山東照宮と同時期に建立されたものと考えられている。 |
岡崎市滝町山籠107 名鉄名古屋本線「東岡崎駅」から名鉄バス「滝山寺下」下車。 |
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