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明月院(臨済宗建長寺派)は、平治の乱で死んだ首藤俊通の菩提を弔うために、1160年(永暦元年)、山内首藤経俊によって創建された「明月庵」が起源とされる。 のちの1256年(康元元年)、五代執権北条時頼がこの地に「最明寺」を建て、その最明寺を前身として八代執権北条時宗が蘭渓道隆を招いて「禅興寺」を創建。 1380年(康暦2年)、鎌倉公方の足利氏満の命で関東管領の上杉憲方が禅興寺を中興し、明月庵も明月院と改められ、禅興寺の支院の首位に置かれた。 禅興寺は、関東十刹の一位に列せられるほど興隆したが、明治初年に廃寺となり、支院の明月院だけが残されている。 |
鎌倉観音巡礼第30番札所 (聖観世音) |
開山:密室守厳
(みっしつしゅごん) |
開基:上杉憲方
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本尊:聖観世音菩薩
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禅〜自身で開く悟り:鎌倉新仏教〜(okadoのブログ) |
山内首藤経俊の母は、源頼朝の乳母を務めた山内尼。 1180年(治承4年)、頼朝は伊豆国で平家打倒の挙兵をするが、経俊は大庭景親に味方し、石橋山の戦いで頼朝に弓を引いてしまう。 富士川の戦い後に捕らえられた経俊は、身柄を土肥実平に預けられ、山内荘を没収された。 その後、頼朝は経俊を斬罪に処すよう命ずるが、山内尼が頼朝に助命を願ったことで許されたのだと伝えられている。 源頼朝の挙兵と山内経俊 |
2023年(令和5年)、京都にあった経俊の父俊通の墓が明月院内に改装された。 |
深谷上杉氏は、上杉氏の諸家の一つ。 山内上杉家の上杉憲顕の六男・憲英が武蔵国に庁鼻和城(こばなわじょう)を築城し、庁鼻和上杉(こばなわうえすぎ)を名乗ったのが始まり。 憲英は、明月院開基の上杉憲方の弟。 1456年(康正2年)、憲英の曾孫・房憲のときに深谷城が築城され、深谷上杉氏を名乗るようになった。 やがて、後北条氏が武蔵国まで勢力を伸ばしてくると、憲英から数えて七代目の憲盛のときに後北条氏の傘下に入るが、1590年(天正18年)、八代氏憲のときに豊臣秀吉の小田原征伐で深谷城は開城。 深谷上杉氏の所領は没収され、氏憲は、子の憲俊とともに信州に隠居。 のちに、憲俊は池田輝政に仕えて岡山藩士となり、憲盛の子孫は、深谷氏を名乗り、旗本として江戸幕府に仕えている。 |
上杉憲英の墓 (深谷市:国済寺) |
深谷城跡 |
国済寺は、上杉憲英が建てた臨済宗南禅寺派の寺。 |
明月院絵図 (国重文) |
木造上杉重房像 (国重文) |
源頼朝の挙兵と山内経俊 北条時頼廻国伝説(謡曲「鉢の木」) 母松下禅尼の教え「質素倹約」・・・北条時頼 |
明月院は、青を基調とした「アジサイ」で知られ、「紫陽花寺」と呼ばれている。 |
明月院門前の道を左へ進むと天園ハイキングコースの明月谷の入口。 様々なコースを選択してハイキングを楽しむことができる。 |
山ノ内道の散策 明月谷から勝上献へ |
花想い地蔵 |
赤地蔵と青地蔵 |
鎌倉市山ノ内189 JR北鎌倉駅より徒歩10分 |
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