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深谷城は、1456年(康正2年)、深谷上杉家の上杉房顕が築いた平城。 深谷上杉家は、庁鼻和城を築いた上杉憲英を祖とし、曾孫の房憲が深谷城を築いたことで深谷上杉を名乗るようになる。 深谷上杉家は、扇谷上杉家とともに武蔵国で勢力をはっていたが、1546年(天文15年)の河越夜戦で扇谷上杉家の上杉朝定が北条氏康に敗れて滅亡すると、七代憲盛も氏康に降伏。 以後、深谷上杉家は後北条氏の傘下に入ったが、1590年(天正18年)、八代氏憲のときに豊臣秀吉の小田原征伐で開城。 深谷上杉家の所領は没収され、氏憲は子の憲俊とともに信州に隠居。 のちに、憲俊は池田輝政に仕えて岡山藩士となり、憲盛の子孫は、深谷氏を名乗り、旗本として江戸幕府に仕えている。 開城後の深谷城には、徳川家康の譜代の家臣・松平康直が入城し、深谷藩が立てられた。 その後、徳川家康の七男松千代・六男忠輝・松平忠重・酒井忠勝が入封したが、1627年(寛永4年)、忠勝が武蔵国川越へ移封となったことにより、深谷藩は廃藩となり、深谷城は1634年(寛永11年)に廃城となった。 |
深谷城跡は、深谷城址公園として整備されている。 |
国済寺は、深谷上杉氏の祖上杉憲英が庁鼻和城内に建てた寺。 上杉氏歴代の墓がある。 |
高台院は、三代深谷城主の上杉憲賢の菩提寺。 |
深谷上杉氏の祖上杉憲英は、鎌倉の明月院の開基・上杉憲方の弟。 明月院には「深谷上杉氏ゆかりの寺」と刻まれた石碑が建てられている。 |
埼玉県深谷市本住町17 |
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