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山内経俊は、1159年(平治元年)の平治の乱で、源義朝に従って討死した山内首藤俊通の子。 母は、源頼朝の乳母を務めた山内尼。 |
北鎌倉山ノ内の明月院は、俊通の菩提を弔うために、子経俊が建てた明月庵を前身としているのだという。 |
上杉憲方の墓として知られているが、一説には、経俊が俊通の菩提を弔うために造った「やぐら」であるとも。 |
2023年(令和5年)、京都にあった経俊の父俊通の墓が明月院内に改装された。 |
父俊通と兄俊綱が平治の乱で戦死したことにより、経俊が「山内首藤」を継ぐことになったのだが・・・ 1180年(治承4年)の頼朝の挙兵には参じず、石橋山の戦いでは、大庭景親に味方して頼朝に弓を引いてしまう。 頼朝は挙兵に際して安達盛長を遣わし、経俊に参陣を呼びかけたのだが・・・ 盛長の報告は、 「相模国には従う者は多くいます。 しかし、波多野右馬允義常と山内首藤滝口三郎経俊は、呼びかけに応ずるどころか、暴言を吐く始末です」 というものだった。 |
頼朝は、石橋山の戦いでは大敗してしまうが、その後軍勢を整え、10月7日には鎌倉に入った。 そして、10月20日、富士川の戦いで平家の追討軍を敗走させると、23日には、大庭景親をはじめとする石橋山の戦いの残党が頼朝に降服。 その中に経俊もいた。 頼朝は、経俊の山内荘を没収し、身柄を土肥実平に預けている。 |
11月26日、頼朝が経俊を斬罪に処すよう命じると・・・ 経俊の母(山内尼)が、息子の命を救いたくて泣きながら頼朝のもとへ参上。 そして、 「祖父の資通が八幡太郎義家様に仕えて以来、代々源氏に仕え忠勤を尽くしてきたことは、他の誰がこれに勝りましょうか。 父俊通は、平治の乱で討死し、六条河原に屍をさらしました。 子経俊が大庭景親に参じたことは、咎められても仕方のないことですが、これは平家への聞こえに配慮しただけことです。 石橋山に軍兵を送り込んだ武将は多くいますが、そのほとんどが罪をお許しいただいているのに、経俊は何故、父祖の勲功に免じてお許しいただけないのでしょうか」 と訴えた。 それに対して頼朝は何も話さず、土肥実平に「預けておいた鎧を持参せよ」と命じると、実平は、持参した櫃の中から鎧を取り出し、山内尼の前にそれを置いた。 そして頼朝は、 「石橋山の戦いのときに、経俊が放った矢が鎧の袖に打ちこまれました。 矢の口巻の上に「滝口三郎藤原経俊」と書きつけてあります。 この文字の切れ目から矢の本体を切って、鎧の袖に打ちこまれたままの状態で今日までとっておいたのです」 と話し、山内尼にそれを見せた。 山内尼は、それ以上何も申し立てることが出来ず、涙を拭いながら退出したのだとか。 しかし、頼朝は、 山内尼の子を思う悲嘆に免じて、また、先祖の源氏への功労に免じて、経俊の死刑を取り止めたのだという。 |
1184年(元暦元年)5月、野木宮合戦以降逃亡を続けていた志田義広を討ち、同年7月には平家残党の反乱の追討に出陣している。 このころ、伊賀・伊勢の守護に就任しているが、1204年(元久元年)3月に伊勢・伊賀で平家残党の蜂起すると、その鎮圧に失敗して逃亡したことから、伊賀・伊勢の守護を解任されている(三日平氏の乱)。 1225年(嘉禄元年)6月21日死去。 |
鎌倉の「紫陽花寺」として知られる明月院。 「アジサイ」の季節には、「ハナショウブ」も見頃となり本堂背後の庭園が公開されます。 |
鎌倉市山ノ内189 0467(24)3437 JR北鎌倉駅より徒歩10分 |
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