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山内首藤俊通(やまのうちすどうとしみち)は、源義家・源義朝に従った武将。 山内首藤氏の祖。 「山内首藤氏」は、藤原秀郷の後裔といわれ、資清の代で「首藤」を名乗り、孫の俊通が相模国鎌倉郡山内荘を領して「山内」を名乗ったことに始まる。 「首藤」という氏は、資清が「主馬首」(しゅめのかみ)という役職にあったため、「主馬首」の「首」と、「藤原」の「藤」に由来しているといわれている。 首藤氏は、代々源氏に仕えてきた家で、俊通の妻・山内尼は源頼朝の乳母を務めた。 1159年(平治元年)の平治の乱で、子俊綱とともに討死。 |
俊通の墓石は、1719年(享保4年)に長州藩の家老・山内広通が俊通の埋葬地(三条粟田口)に建立したもの。 明治になって吉水園(現ウエスティン都ホテル京都)内に改葬されていたが、2023年(令和5年)、明月院内に改葬された。 明月院は、俊通の菩提を弔うために、子経俊が建てた明月庵を前身としている。 |
明月院やぐらは、明月院開基の上杉憲方の墓とされるが、一説には、経俊が俊通の菩提を弔うために造ったともいわれている。 |
1180年(治承4年)、源頼朝は伊豆国で平家打倒の挙兵をするが、経俊は大庭景親に味方し、石橋山の戦いで頼朝に弓を引いてしまう。 富士川の戦い後に捕らえられた経俊は、身柄を土肥実平に預けられ、山内荘を没収された。 その後、頼朝は経俊を斬罪に処すよう命ずるが、山内尼が頼朝に助命を願ったことで許されたのだと伝えられている。 源頼朝の挙兵と山内経俊 |
明月院は、八代執権北条時宗が蘭渓道隆を招いて開いた「禅興寺」の支院。 境内には、五代執権北条時頼の廟所がある。 鎌倉の「紫陽花寺」。 |
鎌倉市山ノ内189 0467(24)3437 JR北鎌倉駅より徒歩10分 |
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