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北ノ庄城(北庄城・庄城)は、徳川家康の次男・結城秀康が築いた福井城の前身となった城。 築城年は不明だが、南北朝期には越前守護・斯波高経が築いた足羽七城(あすわななじょう)の一つだったと考えられている。 高経は新田義貞を討ち取った武将。 その後、越前朝倉家の拠点となり、朝倉氏滅亡後は織田信長の支配下となった。 1575年(天正3年)、越前一向一揆を平定した功績によって越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が築城を開始。 足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流した位置に築かれた城は、安土城に匹敵する巨城で、九層の天守が聳えていたのだという。 1581年(天正9年)に北ノ庄を訪問した宣教師のルイス・フロイスは本国宛ての書簡の中に、 「城と他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれ、その色により一層城の美観を増した」 と報告している。 |
北の庄城址・柴田公園の地に柴田勝家が築いた北ノ庄城の天守があったとされている。 |
柴田勝家と妻のお市の方を祀る神社。 勝家と市を祀る石祠があった場所に1890年(明治23年)、旧福井藩主松平春嶽・旧藩士・住民らの発意により神社が創建されたのだという。。 |
お市の方の娘たち、茶々・お初・お江を祀る神社。 |
柴田勝家は、織田信長の家臣の中で屈指の宿老。 信長から北ノ庄を与えられると、朝倉氏の城下町一乗谷から商人・職人を呼び寄せ、寺院を移して町づくりを行ったのだという。 しかし、1582年(天正10年)、信長が本能寺で横死すると(本能寺の変)、信長の後継者をめぐって羽柴秀吉と対立。 翌年の賤ケ岳の戦いに敗れ、4月24日、北ノ庄城で自害した。 |
お市の方は、織田信長の妹。 初め近江の戦国大名・浅井長政の継室となり、後に柴田勝家の正室となった。 賤ケ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れると、勝家とともに北ノ庄城で自害。 |
お市の方の娘たち、茶々・お初・お江の父は浅井長政。 伯父の信長に父の長政が滅ぼされると、兄・万福丸は処刑され、三姉妹は清州城や岐阜城に預けられていたのだという。 信長が本能寺の変で横死すると、母のお市の方が柴田勝家と再婚。 母に従って北ノ庄城に移った。 賤ケ岳の戦い後、勝家とお市の方は自刃するが、三姉妹は秀吉に保護されている。 像の左は長女の茶々。 後に豊臣秀吉に嫁ぎ、淀殿と呼ばれるようになる。 右は二女のお初。 後に京極高次に嫁いでいる(常高院)。 中央は三女のお江。 後に徳川秀忠に嫁いでいる(崇源院)。 |
羽柴秀吉に対抗するため柴田勝家に接近していた織田信長の三男・信孝は、賤ケ岳の戦い後、尾張国の野間大坊に送られ自害させられた。 野間大坊の源義朝の墓所には信孝の供養塔が建てられている。 |
福井城は、徳川家康の次男・結城秀康が築いた城。 勝家の北ノ庄城の跡地に築かれた城だが、勝家の北ノ庄城を改築したものなのか、新たに別の城として築かれたのかは解釈が分かれている。 |
福井県福井市中央1−21 JR福井駅から徒歩5分 |
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