お江と離縁させられた佐治一成 |
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佐治一成(さじかずなり)は、尾張国大野城主。 織田家の家臣で、母は織田信長の妹・お犬の方。 信長が本能寺の変で横死した後は、信長の次男・信雄に仕えた。 1584年(天正12年)ころ、信長の妹・お市の方の三女で従姉妹にあたるお江(崇源院)と結婚。 お江の父は、近江国小谷城主で信長に滅ぼされた浅井長政。 本能寺の変後、お市の方が柴田勝家の正室になると、越前国の北ノ庄で暮らしていたが・・・ 1583年(天正11年)、勝家とお市の方は、羽柴秀吉に敗れて北ノ庄で自害。 その後、二人の姉(茶々・お初)とともに秀吉に引き取られていた。 一成とお江の結婚は、秀吉が織田信雄を抱き込むためのものと考えられている。 |
北ノ庄城は柴田勝家が築いた城で、安土城に匹敵する日本最大級の城だったのだという。 天守があった地は公園として整備され、お市の方の三人の娘(茶々・お初・お江)の像が建てられている。 |
1584年(天正12年)3月、織田信雄が徳川家康に支援を求めて羽柴秀吉に対抗したことで、小牧・長久手の戦いが起こる。 合戦後、佐治一成は三河国へ引き上げる家康に、佐屋街道の渡しで船を提供したのだという。 このことが秀吉の怒りを買い、尾張国大野を追放されたのだとか。 また、織田信雄の家臣で秀吉に内通して粛清された星崎城主の岡田重孝に加担したことで、信雄に追放されたとする説もある いずれにしても、一成が追放されたことにより、お江は一成と離縁している。 一成とお江の婚姻には諸説あって、信長の意向だったという説もあり、お江を一成に嫁がせたのは秀吉ではなく信雄という説もある。 |
崇源院・お江〜お市の方の娘・徳川秀忠御台所〜 |
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