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満徳寺(まんとくじ)は、縁切寺として知られる時宗の尼寺で、新田義季(世良田・徳川)の創建と伝えられる。 義季は、新田氏の祖新田義重の子で徳川氏の祖といわれる。 開山は、義季の娘の浄念尼(じょうねんに)。 新田氏ゆかりの者が住職となっていたが、次第に衰退・・・ 江戸時代になると、徳川秀忠の娘千姫の侍女だった俊澄(しゅんちょう)が入寺して中興(諸説ある)。 徳川家康から縁切寺・駆込寺として認められたのだという。 以後、鎌倉の東慶寺とともに女性救済の寺として存続した。 1872年(明治5年)に廃寺となったが、1994年(平成6年)に本堂・門などが復元され、史跡公園として整備されている。 |
徳川東照宮 |
伝新田義重夫妻の墓 |
満徳寺の裏手には、新田義季(世良田・徳川)の館跡に建てられた徳川東照宮がある。 義季の父で新田氏の祖義重の墓も。 |
東慶寺は鎌倉幕府八代執権の北条時宗の未亡人覚山尼が開いた尼寺。 室町時代には後醍醐天皇の皇女用堂尼が入山し、江戸時代には豊臣秀頼の娘天秀尼が住持した。 天秀尼(奈阿姫)は、秀頼の大坂城が落城すると、千姫の養女となって東慶寺に入ったのだという。 |
女性を救った駆け込み寺〜鎌倉:東慶寺〜 |
千姫は豊臣秀頼の正室。 母は、織田信長の妹・お市の方の三女・崇源院。 大坂夏の陣で豊臣が敗れると、処刑されそうになった秀頼の側室の子奈阿姫(天秀尼)を養女とすることで助け、東慶寺に入れた。 満徳寺には千姫自身が入って中興したという説もある。 |
群馬県太田市徳川町382−2 |
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