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菅谷館跡(すがややかた)は、源頼朝に仕え「鎌倉武士の鑑」と称された畠山重忠の館跡と考えられている。 重忠は、誕生地とされる武蔵国男衾郡畠山(現在の深谷市)に畠山館を構えていたが、のちに鎌倉街道の要衝にあたる菅谷(現在の比企郡嵐山町)の地に移った。 1187年(文治3年)に重忠が梶原景時に讒訴されたときの『吾妻鏡』に「菅谷館」の記述があるので、その頃には菅谷の地に館を構えていたものと考えられる。 1205年(元久2年)に重忠が武蔵国二俣川で滅んだ後は、畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたという。 ただ、現存する遺構は戦国時代のもので、重忠の時代のものとされる遺構は発見されていないため不明なところが多い。 1973年(昭和48年)国の史跡に指定されている。 |
畠山氏は「武蔵国留守所惣検校職」を世襲した秩父氏の一族。 重忠の父重能が男衾郡畠山に進出して畠山氏を称した。 |
菅谷館の南を流れる都幾川の対岸には、1152年(仁平2年)に源義賢(よしかた)が築いたとされる大蔵館があった。 義賢は、秩父重隆と結んで南関東で勢力を伸ばしていた源義朝に対抗したが、1155年(久寿2年)、義朝の長男義平に攻められ滅亡(大蔵合戦)。 この合戦には重忠の父重能も加わっていたが、重能は義賢の次男・駒王丸(のちの木曽義仲)を助け、木曽谷へ逃れさせたのだという。 源氏の氏神として信仰された鎌形八幡神社には、義仲産湯の清水が今も湧き出ている。 |
※ | 畠山重能の父は秩父重弘。 大蔵合戦で討たれた秩父重隆は重能の叔父。 |
二ノ郭の土塁上に建てられた畠山重忠の像は、1929年(昭和4年)に造られた竹筋コンクリート製。 |
埼玉県立嵐山史跡の博物館は、菅谷館跡に関する資料などを展示する博物館。 |
畠山重忠公史跡公園は、重忠が誕生した畠山館跡を整備した公園。 |
鬼鎮神社は菅谷館の鬼門の守護神として創建されたのだという。 |
慈光寺は、源頼朝や畠山重忠が信仰した観音霊場。 |
1205年(元久2年)6月22日、畠山重忠が最期を遂げた地。 潔く戦うことが武士の本懐 |
鎌倉歴史文化交流館に展示されている赤糸威大鎧(模造)は、「鎌倉武士の鑑」と呼ばれた畠山重忠が武蔵御嶽神社に奉納したもの。 |
埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷 東武東上本線武蔵嵐山駅から徒歩15分 |
鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の東の鳥居を抜けたところにある石碑。 源頼朝の信任を得た畠山重忠の邸は、御所の南という重要な地に置かれた。 |
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