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畠山重忠は、1164年(長寛2年)、武蔵国男衾郡畠山の地に生まれたといわれている。 父は畠山重能、母は三浦義明の娘(江戸重継の娘とも)。 1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵時には平家方の大庭景親に味方したが、石橋山の戦いに敗れた頼朝が安房に渡って再挙するとこれに従った。 以後、鎌倉幕府の有力御家人として活躍したが、頼朝亡き後の1205年(元久2年)、北条時政に騙され、本拠としていた菅谷館から鎌倉へ赴く途中、武蔵国二俣川(現在の横浜市旭区)で討死した(畠山重忠終焉の地)。 畠山重忠公史跡公園は、重忠の館跡を整備した公園で、重忠とその家臣のものといわれる五輪塔や重忠産湯の井戸などが残されている。 「畠山重忠像」は、一ノ谷の戦いの鵯越(ひよどりごえ)の逆落しの際、愛馬三日月を背負って下りたという伝説の光景を表したもの。 鵯越の逆落し |
畠山重忠は、1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵時には、父重能が大番役として京都にあったことなどから、平家方の大庭景親に従った。 由比ヶ浜で三浦軍と戦い、衣笠城を攻めて三浦義明を討死に追い込むなど頼朝に敵対したが、頼朝が石橋山の敗戦後、安房に渡って再挙すると長井の渡しで参陣。 頼朝の鎌倉入りの先陣を務めた。 その後、宇治川の戦い・一ノ谷の戦いなどで活躍し、多くの伝説を残している。 1189年(文治5年)の奥州征伐や1190年(建久元年)、1195年(建久6年)の頼朝の上洛でも先陣を務めた。 清廉潔白で「鎌倉武士の鑑」と称された重忠だったが、1205年(元久2年)6月22日、北条時政の謀略によって二俣川で最期を遂げた(畠山重忠の乱)。 史跡公園には、重忠のものといわれる約2mの五輪塔を中心に6基の五輪塔が並んでいる。 一時、重忠の菩提寺・満福寺に移されていたが、1884年(明治17年)に現在地にもどされたのだという。 潔く戦うことが武士の本懐 |
嘉元二年甲辰卯月九日(1304年4月9日)銘のある塔婆。 1205年(元久2年)6月22日、北条時政の謀略により武蔵国二俣川で最期を遂げた重忠の百年忌にあたって建立されたものと伝えられている。 |
元埼玉県知事・畑和(はたやわら)作詞の重忠節の碑。 国は武蔵の 畠山 武者と生まれて 描く虹 剛勇かおる 重忠に いざ鎌倉の ときいたる |
重忠の父重能は、武蔵国留守所惣検校職を世襲していた秩父氏の出身。 秩父氏の嫡流が武蔵国男衾郡畠山に進出してきたのは重能と時といわれているが、その詳細については不明。 |
1155年(久寿2年)、源義朝の子義平と結んで、武蔵国比企郡にあった源義賢の大蔵館を襲撃。 義賢とともに、義賢に娘を嫁がせていた叔父の秩父重隆を討ち取った(大蔵合戦)。 重能は、秩父氏の家督を父の重弘ではなく叔父の重隆が継いでいることに不満をもっていたらしい。 大蔵合戦では、義平に義賢の次男・駒王丸(のちの木曽義仲)を殺すよう命じられていたというが、密かに斎藤実盛に託して信濃国の木曽谷へ逃がしたのだという。 |
源義賢の墓 (嵐山町) |
義仲館 (長野県木曽町) |
1159年(平治元年)の平治の乱で源義朝が平清盛に敗れると平家の家人となった重能。 1180年(治承4年)に源頼朝が挙兵すると、重忠は頼朝に仕えたが、大番役で京にいた重能は、平宗盛に引き止められていたらしい。 『吾妻鏡』によると、平清盛の信頼が厚かった平貞能が宇都宮朝綱・畠山重能・弟の小山田有重らを開放するように進言したことで、頼朝に従うことになったのだというが・・・ 頼朝挙兵後の重能の詳細は不明。 |
史跡公園の椎の木の下にある自然石が重能の墓と伝えられているらしい。 皆野町の円福寺にも墓がある(畠山重能の墓)。 |
鎌倉武士の鑑・・・畠山重忠の「重忠節」(okadoのブログ) |
井椋神社 |
鶯の背 |
鎌倉歴史文化交流館に展示されている赤糸威大鎧(模造)は、畠山重忠が武蔵御嶽神社に奉納したもの。 |
生誕地の畠山郷に館を構えていた重忠は、やがて、鎌倉街道の要衝にあたる菅谷の地に移った。 1187年(文治3年)の『吾妻鏡』の記事に菅谷館が登場するので、それ以前には菅谷の地に館を構えていたものと考えらえる。 |
鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の東の鳥居を抜けたところにある石碑。 源頼朝の信任を得た畠山重忠の邸は、御所の南という重要な地に置かれた。 |
1205年(元久2年)6月22日、畠山重忠が最期を遂げた地。 |
深谷市畠山510−2 秩父鉄道永田駅より徒歩20分 |
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