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「重忠節」は、「鎌倉武士の鑑」といわれた畠山重忠の一生を詠ったもの。 |
作詞 畑和(はたやわら・元埼玉県知事) 作曲 編曲/細川潤一 |
国は武蔵の 畠山 武者と生まれて 描く虹 剛勇かおる 重忠に いざ鎌倉の ときいたる |
1180年(治承4年)10月4日、重忠は鎌倉を目指す源頼朝のもとに一族の河越重頼・江戸重長とともに参陣。 鎌倉入りの先陣を命じられた。 |
平家追い討つ 一の谷 愛馬三日月 背に負えば そのやさしさに 馬も泣く ひよどり越えの 逆落し |
1184年(寿永3年)2月7日、源義経に従って鵯越から一の谷に拠る平家を攻めて敗走させた。 重忠は、愛馬三日月を労わって背負って下りたのだという。 重忠の生地といわれる畠山重忠公史跡公園の畠山重忠像は、その時の光景を表したもの。 |
雪の吉野の 生き別れ 恋し義経 いまいづこ 静の舞の 哀れさに なみだで打つや 銅拍子 |
1186年(文治2年)4月8日、吉野山で源義経と別れ、鎌倉に送られてきた静御前が鶴岡八幡宮で舞を披露。 工藤祐経が鼓を、重忠が銅拍子を担当した。 |
頼み難きは 世の常か 誠一途が 謀反とは うらみも深く 二俣に もののふの意地 花と散る |
1205年(元久2年)6月19日、北条時政の謀略とも知らず、鎌倉へ向かうため菅谷館を出た重忠。 6月22日、二俣川で北条軍との戦いに敗れ討死。 |
騙されたと知った重忠は、家臣から引き返すよう進言されたが、 「潔く戦うことが武士の本懐」 として討伐軍を迎え撃つことにしたのだという。 潔く戦うことが武士の本懐 |
武蔵御嶽神社は、源義経と静御前の伝説が残された吉野山の蔵王権現が勧請された霊地。 重忠奉納の「赤絲威鎧 兜・大袖付」(あかいとおどしよろい)は国宝。 鎌倉武将が信仰し、摂社産安社は源頼朝創建と伝えられる。 |
鎌倉歴史文化交流館に展示されている「赤糸縅大鎧」(模造)は、重忠が武蔵御嶽神社に奉納したもの。 |
菅谷館跡は、畠山館から菅谷の地に進出してきた重忠の館跡と考えられている。 |
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